東風を浴びて

東の国から西の果てへ 南の島北の果てどこまでも行く

北海道ひとり旅 ③1/3 東京~青森~石狩月形

 いよいよ本編である。2019年7月9日から14日に及ぶ六日間の旅の軌跡を記していきたい。まずは、7/9~7/10までの旅の記録について

 

【7月8日】

 北岳撤退の疲労も半ば残りながら大学に出た。必修の2限の英語は、どうせ5回までは休めるからとサボタージュした。だが、かといって大学に行かないわけにはいかなかった。もちろん課題も無視はできないし、当時はMy PCを持っていなかったから、図書館の共用PCを拝借するしかなかった。当時はwordやexcelスマホアプリの存在を知らなかったから、レポートの格闘場所は決まって図書館で閉館の21時45分ギリギリまで根詰めていたのだ。

 加えて、当時は鬼般教の「日本国憲法」を取っていた。教員は悪人では決してないのだが、レポートは授業をしっかり聞いていないと書けないし、採点も辛かった。教育学部は必修だが非教育の私が受講する道理はないのだが、何となくで履修していたのだ。

完全に余談だが、教室はとにかくうるさかった。先生が喋るのをやめた瞬間ウェイ系が大声で騒ぐのだ。かといって講義室の前方は真面目系で席が埋まっているし、どうもいけ好かない連中の近くに座らざるを得なかった。

そういうわけで、そんな教育の連中と仲良くなれるわけないし、ひたすらに孤軍奮闘を強いられた。しかも、私は昔から文章を綴るのが苦手で、レポートも二回提出してどちらも0点だった。一方、ワンゲルの教育の同期は通算で20点近く取っていて、うざいなと思っていた。俺とは頭の出来が違うんだなと劣等感にさいなまれ、その一方で彼に頭を下げてアドバイスを貰うのも非常に癪で、余計に孤軍奮闘の方向へ突っ走ってしまった。

ちなみに、レポートは三回提出で各配点は10、15、20点であり、この計45点とテスト55で成績評価される。この時点で大分落単リーチであることは容易に想像されるだろう。だから、翌日から旅行であるとか考えられず、ただ真面目に授業を聞いて論点整理するしかなかった。

結局真面目にやったので、教員にも(多分)温情もかけてもらい何とか可を貰うことができたので、1春の国憲に苦しめられた日々も今になってみると良い思い出である。なんだかんだ、のちの法学系の授業のレポートが嘘のように簡単に思えたし、何だかんだ法的三段論法の基礎は身についたように思う。この教員、Twitterエゴサもまあまあやってるし癖は強いが、後々役に立つから頑張れと、後輩(こんなブログ見てんのか?)には言っておこう。

 

完全に昔の授業の思い出話になったが、ともあれ、国憲の授業内容を復習しながら、家路に就いた。その後は粛々と準備を進めていった。

 

【7月9日】

発駅(省略)→宇都宮6:51/6:59→黒磯7:49/7:54→新白河8:18/8:27→郡山9:03

/9:25→福島10:11/10:40→(快)→仙台11:56/12:18→高城町12:47/13:08→松島海岸13:11 松島13:55→小牛田14:16/14:51→一ノ関15:39/15:45→盛岡17:16

18:03→大館20:52/20:55→(快)→青森22:13 青森港23:30(青函フェリー)→

 

 

当時の私は、親族の家に居候していた。山手線までは辛うじて歩ける距離だったので、山手線の始発に乗って、宇都宮線の始発宇都宮行に乗った。思えば、当時130円の大回り乗車をほとんどやってなかった。今となれば不思議だが、私も忙しかったのだろうか。だから、大宮からの宇都宮線は全くの初めてだった。本当はここで寝るはずだったが、むしろ未知の景色に目が行って寝るどころではなかった。広い草原が続く関東平野が、山がちな地形で育った九州人の心をとらえて離さなかった。景色は単調そのものだが、見入ってしまう何かがあったのだ。

黒磯から新白河の間の、山がちな感じも良い。秘境駅観察の趣味もあるから、過行く駅の観察も忘れない。高久や豊原のような鄙びた雰囲気も良いが、古い木造駅舎が残っていて町の代表のように威風堂々と佇んでいる黒田原も良い。

福島駅の構内に郵貯のATMがあることに気づき、嬉しくなった。実は当時の私は、郵貯郵貯のATMでしか金を下ろせないと思い込んでいた。手数料さえ払えばその辺のコンビニで下せることを本当に知らなかった。この事実が、翌日の行動に大きく作用することになるのだが、それは後々。が、所持金が増えて有頂天なあまり、ザックに横付けしていた銀マットをATMの中に忘れてしまった。仙台シティラビット3号の車内で気づいたときはもう遅かった。

仙石東北ラインの気動車高城町に着いた。仙台に着いた感慨もつかの間、牛タンを食べることなく列車に乗り込んだ。高城町から一駅折り返せば松島海岸駅だ。

 

私は松島という場所の響きが好きで昔から行ってみたいと思っていた。中学時代、「月日は百代の旅人にして」という、もはや説明不要であろう紀行文の冒頭がとにかく好きだった。日々の単調な生活が嫌で、芭蕉のように自由に旅することを夢想していた中学時代。そんな芭蕉が絶句したくらいの景勝地に、自分も行ってみたいと思うのはごく自然なことであった。

駅を出るとすぐに広い公園があって、店がたくさん並んでいる。なんもない平日の火曜日だから人は多くはないが、ままいる。

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五大堂

取り敢えず、観光らしいことをしよう。いくつかの橋を渡った先に、歴史を感じさせる木造建築が佇んでいる。五大堂である。調べてみると1604年に伊達政宗によって建立(正確には再建)されたようである。その先に見える太平洋はどこまでも穏やかな海だった。空はどんより曇っているし、平凡な景色に思えた。芭蕉の感慨が如何ほどであったかは全く分からなかった。ただ、8年前の大地震のニュースの記憶だけが頭をよぎり、静かな波打ち際をじっと眺めた。

人が言うところの松島の良さはよく分からなかったが、もう十分満喫したような気がした。時間はまだあったが、松島海岸の散策は止めにして、鈍行旅に戻って松島駅まで国道沿いを歩く。途中の小学校は道路からすぐに校庭に出られるので、どこか田舎ののんびりしていた空気を感じる。昼休みの時間のようで、鬼ごっこドッジボールに興じている。ただ自分はそれを横目で見ることしかできないと気づかされた。

松島から小牛田まで行くと、701系ロングシート地獄である。景色も単調でまともに起きてすらなかっただろう。一ノ関で乗り換えてからも特に記憶はなく、地元の高校生の談笑に起こされた。気が付けば盛岡だった。

盛岡はワンゲルの一個上の先輩の故郷でもある。事前に駅周辺で良い店はないですか、と聞いていたので、その店を探して歩く。が、時間的に行くのが難しいと知った。ノリで行けるだろうと高をくくっていたが、事前調査が甘すぎた。結局コンビニで軽く腹ごしらえをした。

盛岡からはIGRいわて銀河鉄道を経由する花輪線に乗り、大舘を目指した。好摩までは高校生が多いが、大更までに大分降りてしまい、座れるようになる。北森だった気がするが、学ランの高校生から駅に止めていた車に乗り込んで走らせていた姿がとても印象的だった。山岳路線の印象が強かった花輪線だが、想像以上に生活が見える路線だった。

大館に着くころには乗客は4~5人程度だった。大館は忠犬ハチ公生誕の地でもあるが、立ち寄る間もなく、隣のホームの快速青森行に乗る。東京から18きっぷを用いて一日で青森に行くなら、必ず避けては通れない列車である。

青森に着いた。22時20分になっていた。中学時代に西村京太郎を愛読していた身なので、青森駅は「終着駅殺人事件」「北帰行殺人事件」やらで親近感のある駅だった。1959年に完成したこの4代目駅舎は、鉄道と青函連絡船函をつなぐ北の玄関口として、青函トンネル開通後は快速海峡や特急スーパー白鳥への乗換駅として、そして北海道新幹線の開通後は青函輸送の主役を譲った一地方駅として、60年に渡って青森の町と旅行者たちを見つめてきた。今となってはスーパー白鳥さえ来なくなって広い構内が寂しい限りだが、あまりに長いホームを延々歩きながら、往時を偲ぶ。正面出口の「あおもりえき」の表示は、「終着駅殺人事件」の世界線そのもので、記念写真も撮ってもらった。

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今はなき青森駅4代目駅舎。

当時は知らなかったが、この二年後にこの駅舎は取り壊されて新しい5代目駅舎が完成したらしい。東口から西口へと続く長い跨線橋とその下の長く使われてないだろう線路の列が、かつての賑わいを教えてくれていた。今思えば、良い時期に訪れていたなと思う。

 

 

さて、ここでも相変わらず事前調査の甘さが災いし、時間的に青森港まで歩けないことが判明した。痛い出費だがタクシーを借りて港に向かい、青函フェリーの乗り場に向かった。二等の学割で1,600円だった。北日本・東日本パスの新幹線課金券は使い方次第ではかなり魅力的ではあるが、6000円(※当時は消費税が8%)とやはり高い。北海道新幹線が誕生してからはやはりフェリーが一番安上がりだ。

 

23時30分。函館港行きが出港した。宮島航路とは比にならない船体の大きさにワクワクしながらロビーでくつろぐ。しかし、そわそわして眠れない。

探検もかねて船内を歩いていると、ドライバーズルームという部屋があった。いつか誰かのブログで見かけたやつだった。昔の急行「きたぐに」とかにあったA開放寝台みたいな二段ベッド構造になっている。さすがに夏休み前の平日で客も少ない。十分な空きもあった。そこで、今日の寝床はここにした。まずい気もするが鍵で利用制限を設けているわけでもないので、今回は問題ナシ!ということにした。(笑)

 

さすが運ちゃん専用というだけあって、照明もいい具合に暗い。いつの間にか爆睡しており、気が付けば函館港で船員に起こされていた。

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函館港着!

 

【7月10日】

→函館港3:20/5:49→森7:43/8:00→東森8:04 森10:07→長万部11:18/13:18→倶知安14:57/15:18→小樽16:26/17:10→朝里17:20/17:30→桑園18:06/18:18→篠路18:35/19:06→石狩当別19:27/19:32→月ヶ岡19:57/20:27→中小屋20:32 本中小屋21:46→石狩月形22:03

 

 

 

青函フェリーの函館港は北大函館キャンパスに近い函館ターミナルとは違い、函館駅寄りの南側にある。もちろん駅は五稜郭の方が近い。それでも、やはり北海道の鉄路の玄関口は函館駅と信じて疑わなかったため、結局函館駅まで歩いた。BGMは当然、北島三郎で「函館の女」である。

函館駅に着き少し散策をしたところで、いよいよ列車に乗り込む。列車は5881D森行である。この5881Dは結構曲者で、いわゆる藤城線と砂原支線を経由して走る唯一の列車だ。鹿部など駒ヶ岳の東側を走る砂原線大沼公園などを通るバイパス線に主役を奪われた路線だと一瞬で分かるが、大して藤城線はかなり不思議な路線である。

もともと、本線の七飯~大沼間の下りは勾配が厳しく、途中の仁山にはスイッチバックが存在したくらいだ。そのため、運転の効率化のため下りの特急や貨物列車は藤城線を経由して仁山を経ずして大沼に向かっていた。しかし、北海道新幹線開業により、七飯~大沼間の途中駅の一つだった渡島大野駅新函館北斗駅に変わると、特急列車は藤城線経由をやめ、新函館北斗に停まるべく本線経由に戻された。よって、現在藤城線を経由する旅客列車は下りの3本だけである。5881Dはそのうちの数少ない一本だった。 たしかに路線の規格は良くて、原生林をコンクリ製の橋梁で直線状にぶち抜く感じが、優等列車街道であった時代を偲ばせる。しかし、国鉄型のキハ40は呪いをかけられたかのような鈍足で、バイパス線を登って行った。

鹿部付近からの内浦湾の景色に心を奪われていたら、東森だった。森で次の長万部行まで待っても良かったが、暇だったので一個前の東森で降りて森まで歩くことにした。東森はただの無人駅で特に何かが面白いわけではない。駅前の植物の繁茂がすごかったことと、純粋に便意がヤバくて駅前の町医者にトイレを借りたことくらいしか記憶にない。

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東森駅。一面一線の無人駅だが、1927年開業と歴史のある駅だ。

森駅に着いた。東森からの道は田舎の鄙びた漁村そのものだったように思う。個人的にはICカードnimocaがこの界隈のバス乗車券として普及している事実に驚いていた。九州それも福岡は西鉄沿線の人間からすると、西鉄の専売特許だと思っていたから猶更だ。跨線橋から見える駒ヶ岳の広い裾野を眺めながら、長万部行821Dを待った。

 

821Dは内浦湾沿いを走っていく。思った以上にトンネルが多く睡魔にも犯されるが、この辺りは廃秘境駅も多く車窓からの場所の同定も意外と楽しい。特に北豊津は駅舎の跡もあって分かりやすいが集落は消滅した雰囲気で本当に何もなく、なるほど廃止もやむ無しだと納得した。

長万部では2時間の空きがあったので、散歩したり町営図書館で本を読んだりした。東京理科大長万部キャンパスも少し気になったが、想像以上に遠くてパスした。かなやで「かにめし」を調達することも忘れなかった。

山線2943Dに乗って景色を眺めていたが、寝たり起きたりを繰り返していると、でっかい山が見えた。羊蹄山だった。

倶知安からの列車は高校生で混雑していた。ロングシートで無理やり寝た気になって寝た。列車は混雑をそのままに小樽に着いた。16時26分。

当初の予定では、朝里と銭函に降りようと思っていた。札樽間でもとりわけ朝里・銭函の海岸線は昔からのじっくり見てみたいと思っていたし、両者ともに日本海沿いの駅というから非常に興味があった。両駅とも普通しか止まらず、次は40分発である。でも、小樽駅の建築をじっくり観察したかったので、取り敢えず40分発を見送ってから朝里に向かった。

朝里は、日本海の海岸線沿いにある駅で、さらに東に進めば断崖絶壁の札樽の海岸線沿いを走る。国道からは少し外れていて鄙びた雰囲気があり、駅も無人駅である。軽く時間をつぶすにはちょうど良い。自販機があったのでコーヒーを買って待つことにした。自販機の前に立って小銭を取り出そうと財布の中身を見た。一万円くらい入っていた。だが、このタイミングでハッとなった。

そうだ、なぜ小樽で現金を引き出さなかったのか。もともと小樽の郵便局で引き出す予定だったのに。、当時の私は、数料さえ払えばその辺のコンビニで郵貯の金が下せることを知らなかった。(マジです)だから、郵便局で下すことしか考えられなかった。しかも、小さな郵便局のATMは大抵17時には閉まるから、郵便の仕分けをするレベルの大きめの郵便局を狙うしかない。

この時点で銭函に行く時間的余裕はなくなった。取り敢えず次の札幌方面行電車に乗って次の策を考えよう。以下は脳内での思考である。

 

(これから自分は札沼線に乗りに行き、石狩月形の旅館に泊まる。とすれば、札幌発18:45に乗って石狩月形行には間に合わせたい。郵便局は札幌駅周辺で探しても良いが、せっかくなら札沼線沿線で探してみるのも面白そうだ。駅近で市や区の代表レベルの郵便局がある駅を探すと、...篠路だ。篠路で降りよう。

それだったら、札幌には寄らずに桑園で降りて、桑園18:18発に乗って篠路で30分の空きの間に近くの篠路郵便局にいけば良い)

 

そういうわけで桑園で降りて札沼線に乗り、篠路で降りた。札沼線の混雑は殺人的だったが、運用が721系でしかもuシート車両に座れたから最高だった。これならむしろ石狩当別まで乗り通したかった。

篠路で無事本意を遂げると、石狩月形行に乗り込む。無駄に二両編成だった。

北海道医療大学を過ぎ、翌年のGWに廃止された区間に突入する。北海道医療大学付近はまだ草原地帯といった感じだが、次第に山が近づいているような気がした。やがて、列車は月ヶ岡に停まる。ここで途中下車することにした。石狩月形行は2時間後に来るから、それまでの間多分二度と来ることはないであろう途中駅を訪問したかったのだ。

月ヶ岡は北海道にきて初めて見た「貨車駅」だった。本当に貨車なんだと驚いた。この駅は貨車の待合室のほかにログハウスみたいなトイレもあり、割と豪華な部類だった。地元の高校生っぽい子がランニングをしていて怪訝そうにこちらを見てくるのでいたたまれない気分になる。駅前は一応国道が走っているが往来はそう多くなく、街灯が少ない。ヘッドライトさえあれば十分な土地なんだろう。

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中小屋駅内部。「貨車駅」は貨物用貨車を改造したもので、北海道各地に存在するが、最近ではこれさえも改築の対象になりつつある。

月ヶ岡から一駅戻って中小屋で降りる。ここも「貨車駅」だ。駅ノートを軽く書き上げたら、さら本中小屋まで歩く。駅間の歩きは秘境駅ヲタクの伝統芸である。歩道はあったと思うが、やはり通り過ぎる車が早すぎる。虫の音と通り過ぎていく車の爆音しか聞こえない。ある意味人の匂いは全くなく、時折道路沿いに点在する廃墟の数々が孤独感を増幅させる。

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光があるな、と思って近づくとこれである。下手なホラーよりよっぽど怖い

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田舎の国道沿いあるある。だが、色んな意味で近づきたくない

一時間ほど孤独を感じながら歩くと、本中小屋に着いた。ここもやはり「貨車駅」で既に飽きがきた。高々二時間で同じような構造の駅に三つも出会うとゲシュタルト崩壊しそうだ。しばらく待って石狩月形行に乗り、石狩月形に着いた。

この駅は交換設備も備えた駅で、駅舎も立派な木造だった。いかにも地方の小都市の中心部って感じの駅で久々に人間の生活の匂いがあった。

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石狩月形駅舎。一面二線で折り返し列車も設定されていた。札沼線の部分廃止に最後まで抵抗していたのが月形町だったくらいで、沿線では栄えている部類に入る

さて、駅から十分ほど歩いたところに「月形温泉ホテル」があり、今日はここに投宿することにした。4800円とまずまずだが、部屋は広く修学旅行感があってよかった。天然温泉はさすがに時間外だったが、簡単な風呂に案内されて一息つけた。

明日は当然新十津川に行くが、せっかくなら北海道医療大学石狩月形の間の5駅にも訪問しておきたい。真ん中の三駅(本中小屋、中小屋、月ヶ岡)は今日中に行けたので、あとは両端の石狩金沢知来乙だ。知来乙へは月形から歩いていき、知来乙から石狩当別行の始発に乗れば石狩金沢にも行けてパーフェクトだ。とりあえず五時起きを目指せばどうにかなる、と考え、寝ることにした。

北海道ひとり旅 ②前段2 地獄の北岳

久々に時間が取れそうなので、しばらく放棄していたブログを再開しよう。といっても、まだ北海道の旅に入らない。というか、一応今は期末の期間なので、そんなに長い話を書く気はないし、内容的にも今回の話は短めの方が良いというのが大きい。と思ったが、普通に長くなってしまった。

 

①5/1~5/3 妙高 小屋

②5/11 新人錬成山行1 丹沢山

③5/26 岩場B 乾徳山

④6/8~6/9 新人錬成山行2 瑞牆山金峰山

⑤7/5~7/7 新人錬成山行3 北岳

⑥7/9~7/14 北海道の旅

 

前回に、北海道の旅までに行った山山について紹介したが、改めて再掲する。前回は、妙高の小屋の話を中心に、新錬2の瑞牆・金峰までの道のりを紹介した。今回は、新錬3の北岳の件について話そう。

 

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北岳肩の小屋から。北岳。(先輩撮影?)

 

正確な日時は忘れたが、六月の中旬には北海道の旅の計画はできていた。日程は7/9(火)~7/14(日)とした。問題はどうしてこの時期になったのか。

こういう貧乏旅行には激安乗り放題切符が不可欠なのだが、今回は「北日本・東日本パス」がそれに該当する。その利用可能期間は7月1日(月)からなので自ずとそれ以降の時期に限られる。また、7/5~7/7でワンゲルで北岳に行くというから、それ以降にしよう、となった。あとは、当時月曜に日本国憲法という講義を取っていたのだが、この講師がなかなかレポートの採点が辛く、期末前のレポート点の段階で落単の危機が迫っていた以上、さぼるわけには行かなかった。だから、この日程にした。

北岳について、主将の先輩いわく、「一年生で穂高に行きたいなら、この合宿に来てもらわないと困る、いわば北アルプスの前哨戦だ」。当時別に山に格別の思い入れがあった訳ではない。あくまで野宿で一人旅をしていくための準備期間という位置づけだった。別に槍とか大キレットなんて越えれたらカッコイイな、ぐらいの気だった。どうせ先輩が連れてって呉れるだろう、そんな思いがあった。なんせ、今は憧れの北海道に行けることを夢見て夢中だったから。

このように、この時期においては、山は「先輩に連れていって貰うもの」という認識があった。やる気もなかった。まともにとレーニングらしい走り込みとか歩荷で階段上下とか、まるで記憶にない。結果的に八月の槍穂高縦走は成功したわけだが、もし先輩がこんな実態を知っていたらマジ切れされたに違いない。審査会があれば、間違いなく行くことを認めてもらえなかっただろう。

そういう経緯もあって、北岳には無茶苦茶行きたくなかった。中止になれとさえ思っていた。俺の中では北海道の旅が一番大事だから、その直前の週末に南アルプスに行くのがたまらなく不快だった。思えば、北海道の旅では、問寒別から雄信内までを三時間くらいかけて歩くことを計画していたが、そこでヒグマに遭うことを何となく信じていた。自己憐憫に陥りたかったナルシズムもあったし、実際結構不安だった。当時の自分としては、命を懸けてそこを旅するという思いがあった。(もっとも、以後幾つかの山の旅では、命を懸けてそこに登るという意識がこびりついているわけだが)今にして思うとただのビビりだと一笑に付せるが、当時としては正当な恐怖だったと思う。そういうわけで、命がけの旅の前に北岳に行くのが嫌で仕方なかった。

 

そんなわけで、若干の妨害工作も行った。北岳へは、甲府から南アルプス林道(当然マイカー規制)を通る山梨交通のバスに乗って、広河原という拠点基地で降りてから登る。そこで、山梨交通の運行状況を調べて、それが運休ならやめにしませんか?と先輩に(クソ生意気にも)「上奏」しようとした。幸運にも(?)、7月の2日だったか3日だったか、バスの運休情報が山梨交通のHPから出ていた。南アルプス林道の通行止めが原因だった。内心よっしゃ!と思いながら主将にその件を話した。「わかった、ありがとう」と返信をいただいた。

実のところ、週末は天気が怪しかった。多分やらないだろうと確信していた。

 

 

が、木曜の夜になって愕然とした。LINEで食材の買い出しの分担の話になっていた。完全にやる流れだ。先輩も「前回の瑞牆も雨予報だったのにしっかり晴れた。今回も雨予報だけど山の天気は変わりやすいからワンチャン行けるだろう」的なことを言っている。ああ、ここまで来ると諦めるしかないんだな、と悟った。

ちなみに、20年の一月になって主将と面と向かって色々山に関して議論したとき、主将が、実際やりたくないし天気は絶対最悪だろうな、と思っていたことを知った。正直、皆そう思っていただろう。それでも、北岳を外して北アルプスに行くのは考えられないから、強行するしかなかった、と話していたような気がする。一月くらいの時期には、自分も主将なら行かせただろうと思った。

 

まあともあれ、北岳には行くことが決まってしまった。

 

 

 翌5日金曜日。いつものように簿記の講義を受ける。いつもと違うのは、家に戻る時間がなかったので、登山靴を履いて馬鹿デカいザックを背負っていることだ。図書館に籠って若干の課題を済ませた後、大学を出て標高差50mほどの坂を駆け下り、駅前のスーパーで先輩に命じられた人参とかを調達し、最寄りの私鉄に乗り込む。JRに乗り換えると、そこは通学のラッシュアワーの時間に重なって座れない。体積も取るザックだから、立ち位置にも気を遣うし、ザックを下ろせない。30分くらいしてようやくザックを床に置くくらいのスペースの余裕ができる。しかし結局座れることはなく列車は八王子に着く。八王子から、松本行鈍行に乗り換える。始発駅だから座れた。疲れがどっと溜まったせいかすぐに眠りについた。

 ふっと目を覚ますと四方津だった。危ない、次の駅だ。そう、我々は梁川で降りるのだ。北岳に行くには広河原行のバスに乗る必要があることは先に述べたが、コースタイム的に甲府駅7時発に乗らないとキツイ。(ちなみに始発ではない、始発は4時半である!)当然関東圏からこんな時間に甲府には着けないし、どこかで前泊の必要が出る。実は甲府駅では半ば駅寝が公認されていて、山人たちが夜明のバスを待っていたりするのだが、主将にそこまでする気力は湧かなかったようで(というか、部内では私以外全員駅寝には反対するだろうが)、かと言ってホテルに泊まるのも馬鹿らしく、結局キャンプすることになった。(←なお、二年後の夏に甲府城で野宿して、北岳をピストンすることになることをまだ知らない...)で、先輩がたまたま見つけた駅近のキャンプ場が、梁川の「月尾根自然の森キャンプ場」だった。もっとも駅近と言っても徒歩25分くらいあったと思うが。

 余談だが、梁川に来るのは実は二度目だ。5月に乾徳山に行った塩山からの帰り、なんとなく気になって下りてみた。だから、地理は分かっていた。梁川駅からは、甲州街道の信号を渡ると、相模川に架かる橋がある。これを渡った先にキャンプ場はある。たまたま電車が同じだった同期と軽く雑談しながら、よく分からん夜道を歩く。舗装路を20分以上歩いてから川辺の方へ5分ほど歩けば、見覚えのある緑のドームテントがあった。先発していた先輩たちが準備してくれたのだ。

 私はABCDの計四隊のうちのC隊だった。C隊のメンバーは大体そろい、着々と夕食の準備を進めた。鍋だったと思う。レシピは先輩に任せたから特に覚えていない。何だかんだありながら20時くらいには飯にありついたような気がする。

 他の隊も着々と飯の準備を進める中、B隊の様子がおかしかった。元々授業が遅くまである学部の連中は来るのが遅いことは分かっていたのだが、逆に早く来れる奴もいる。問題は、B隊のメンバーの一人であり、早く来れるはずのメンバー、ここでは便宜的に甲と呼ぼう、が来ないのである。連絡もない。これはどうしたものか。この甲、実はコフェル(鍋)と着火装置を所持していた(たしか)。つまり、甲が来ない限り、B隊のメンバーは鍋を食えない。まあこの甲、結構抜けているところがあって、例えば、初っ端の新錬であれだけ水を十分持ってこいと散々先輩から言われたのに500㎖しか持って来ず脱水症状気味になる、新錬2ではなぜか水ではなくポカリ(しかも1.5L)を多めに持ってきてバテて(料理に使えない、水なら最悪の場合中身を捨てて荷を軽くできるのにそれができない)先輩を呆れさす、などの失態を犯している。そんなわけで、彼が今どういう状況にあるか何となく想像がついていた。恐ろしいことに、冗談半分で笑っていたこの予感は、当たっていたのである。

 「『あずさ』に乗って甲府まで行っちゃいました!」

 

 一応だが、梁川と甲府は60㎞くらい離れている。散々行き方については説明があったから普通は間違えようもない、はずなのだが。それに八王子・甲府ノンストップの「あずさ」に乗って間違えるあたり中々に芸術点が高い。全車指定席だから、指定券を取った段階で普通気づくだろうよ…

まあ、厳しく咎めるようなことはうちの部ではない。B隊の連中も、他の隊の連中に鍋を拝借すれば良いだけの話だった。それに、当時のワンゲルは毎回毎回何らかのやらかしをしでかす奴が出現したので、それをひたすらネタにする風潮があった。むしろ煽っていた。だから、こういうやらかしの出現を期待していた節さえあった。今でもたまに同期とか先輩に会うと、この辺のやらかし話は大いに盛り上がる。やらかしの歴史は、部全体にとって各山行のメルクマークですらあるのだ。

そんなわけで、甲がキャンプ場に着いた頃には23時を回っていたと思うが、とにかく合流した。そして寝るのだが、私のテントの位置はあまり良くなかったらしい。木から無数に雫がテントに落ちてきて、その音で眠れない。前回のキャンプとは睡眠の質が全然違う。野宿もこういう局面があるのか、と感じた。

たしか、三時半起床だったと思うが、まったく眠れなかった。適当に飯を食って撤収し、梁川からの電車に乗る。流石にみんな爆睡していたが、大月乗り換えだったから、自分は目を開けていた。が、このせいで覚醒状態になってしまったか、大月発の甲府行電車でもまったく眠れなかった。やばい、でもバスが眠れんかったら死ぬ、みたいなことを考えていた。

 

が、甲府駅に着くと、バス乗り場には長蛇の列ができていた。既に20近くいただろうか。ちなみにうちのワンゲルは20人くらいだ。流石に山梨交通には事前連絡を入れたし、まあ大丈夫だと思っていたのだが、来たバスは普通の路線バス一台だった。二号車とかワンゲルのための貸切バスは一切なかった。しかも、私はワンゲルの中でもほぼ最後尾だった。詰みゲ―だな、と一瞬で悟った。

案の定、部内でも明暗が分かれた。最前列にいた奴は座って出発して10分もせずにいびきをかいてやがる。逆に私はと言うと、中扉のステップの段差にうずくまっていた。ザックが邪魔だし体勢もきついから寝れたもんじゃない。振動も直に伝わって酔いそうだ。同じく憂き目に遭っている先輩と、ブツブツこぼしたり猥談で盛り上がったりして耐えた。ちなみに、愚痴は主に山梨交通に対するものであり、バスだからワンマン運転すればよいのになぜか50過ぎの女性添乗員も乗っていた。最初は無駄だろとか思っていたが、甲州弁のまるで何を言ってるのかよく分からない感じの軽妙なしゃべり口と、名人芸とも呼べる冗談を交えた車窓紹介などがとても面白く、先輩と爆笑しあった。

 

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広河原。アルピコ交通みたいに高速バスで運転して欲しい…

広河原について20分ほど準備やストレッチをした後、いよいよ出発となる。行程を先に示しておこう。こうだ。

 

7/6 9:30広河原→白峰御池山荘12:05/30→(草すべり経由)→北岳肩の小屋15:35

7/7 5:50肩の小屋→北岳6:40/50→間ノ岳9:30/40→野呂川越12:40→(両俣小屋)→野呂川出合15:30

 

 地図を見れば一目瞭然だが、二日目の行動距離はかなり長い。当時のワンゲルは「百名山&国内標高1~10位制覇プロジェクト」があって、この新錬3と夏合宿を通じ、赤石岳を除く9座に登る計画になっていた。北岳は標高2位(3193m)、間ノ岳は標高4位(3位とも、3190m)を誇る。だから、どうしても行きたいわけだが、間ノ岳を含めようとするとかなりタイトなスケジュールになる。当初では間ノ岳から北岳へ引き返しその途上にある北岳山荘からの分岐を曲がり、八本歯のコルを経由して下山する予定だったが、この時期は雪渓ルートなので除外せざるを得なかった。そういうわけで両俣小屋を経由しながら野呂川出合に落ち合うことになった。

 が、まったくの睡眠不足である私は不安しかなかった。こんな長距離に堪えられる気がしなかった。そんな不安をよそに南アルプスへの登山道に入り込む。

 

広河原から早川のつり橋を渡れば、しばらくは樹林帯の中をひたすら登る。無茶苦茶な急登ではないが、疲れは出てくる。基本的に鈍足の奴が先頭を務めることが多いので、必然的に自分が先頭になる。自分のせいで後ろが詰まっている感じなのでちょっと気を遣う。

12時頃だろうか、展望が突如開けてくる。もっともガスであまり見えないが。気が付けば御池山荘だった。やっと飯が食えそうだ。ふうっと息をつき荷を下ろす。

まあ飯と言えばカップ麺とかパンを買うのが定番だが、当時の私はまともにバイトをしておらず困窮を極めていたので、手作りチャーハンをおにぎりにして4つほど忍ばせていた。基本私は大学に手作りの弁当を持参していたが、週一でチャーハンを作っていた。うまいわけではないが、惰性で作っていた感じだった。

で、今回の旅も金曜の午前のうちに仕込んでおいて行動食としてザックに忍ばせていた。4つのうちの一個は昨夜に食ったから残りは3つだった。で、ここぞとばかりに口に入れるのが、…まずい。腐っていた。多湿なのだしザックに入れっぱだから当然だ。その瞬間ひどく嗚咽したい気分になった。が、恐ろしいことに俺の行動食はこれだけしかない。ないわけではないが、腹に溜まりそうなものはこれだけだ。水をがぶ飲みしたりカロリーメイトもどきを少し分けてもらったりして何とか耐えた。ちなみに、北岳の山行以降の人生において、手作りチャーハンを作ったのは三度しかない。手作りチャーハンはそれだけトラウマになった。

御池山荘を出るといよいよ草すべりである。まさに草地の急登という感じだが、まだ雪が残っていた。雪渓みたいなものだった。へりの方を慎重に滑らないように登っていく。これがなかなか疲れる。雪渓が終わると今度は九十九折状の登りである。最初は踏ん張ったが、次第に体力の限界が来た。最初の方で飛ばしすぎたのかもしれない。やがて、睡眠不足もあったか、きつくて前にすら進めない状況になり、10分ほど休ませてもらった。だが、状況は良くならない。すると、後発隊のD隊が追い付いてきた。C隊のメンバーとも協議しながら、C隊Ⅾ隊のメンバーを一人づつ出し合って私を見てくれることになり、他のメンバーは先に進むことになった。どうやら高山病の症状が出ていたようだ。御池山荘からは段々森林限界に近づくのだが、草すべりにしたってちょっとペースが早すぎたのかもしれない。もっとも、運動不足と言われたらたし蟹と認める外ないのだが。

他のメンバーの出発を見届けて五分後くらいにようやく我々は出発した。D隊の別の一人が我々と一緒に行動したので計4人だった。このメンバーは元山岳部出身の自由人なので、明らかに破線ルートみたいなところを勝手に登ったり好き放題していた。C、Dの二人は三年で、とても仲が良く、私の足が遅いので余裕綽綽と言った感じでダラダラ歩いている。それでも暇なので雑談に興じているようで、楽しそうだった。

そんな彼らが死にそうな顔をしている私を見て、「こいつ頑張ってるから、励ましの歌を歌おうぜ!やっぱ明るい歌がいいよね!」とか言い始めた。で、歌い始めたのが、…昔のドラえもんの主題歌だった。二人とも大声でイントロから面白おかしく歌い始めるのだが、…恐ろしく耳鳴りがし始めた。いやに共鳴する感じの音だった。おかげでかえって気分が悪くなった。松本清張の「砂の器」で超音波で人を殺す話があるが、それに似た不快感な気がした。「すみません、気持ちはありがたいんですけど、マジでやめてください」こう言うと、その様が相当ガチだったようで馬鹿笑いし始めた。元々うるさい二人だが、こういう人たちなんだなと納得した。ちなみに、彼らの仲は今でも極めて良好で、一部でカップルだとかデキテんじゃね?とか言われてる。

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稜線歩きも、このガスではあまり意味がない

そんなこんなで、特に展望を楽しむ余裕もなく粛々と登り続け15時40分頃、やっと肩の小屋に着いた。稜線には出ていたがガスでろくに景色もないのでどうでも良かった。まあ、とにかく休めるということで、先発隊が立ててくれたテントに入らせてもらった。そのテントは高山病経験者専用のテントになっていて、先発隊の同期数名が寝込んでいた。やはり、皆金峰で2500を経験したとはいえ、標高3000の肩の小屋まで行くにはそれなりに大変だったのだろう。

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肩の小屋。日本最高峰の幕営地を持つ小屋でもある

しばらくして夕食の時間となり、先輩に分けてもらった。その後、寝るテントの振り分けに入るが、今回はテントを5つ持ってきていた。ABCDで4・5テン、6・7テンを振り分け、余剰人員を残りの3人用テンにぶち込む算段になった。で、私は3テンにぶち込まれた。というか、3テンのメンバーは部内でもドジ間抜け気味な三名が集められた。(これはキャプテンの策謀だろう)前述の甲、あと足が強くない乙だった。乙は、初っ端の新錬で筋肉痛で丹沢山への登頂を諦め、その対処策としてボッタくりみたいな価格の漢方薬を持参したことがネタにされていた男だった。(このネタの神髄は、肝心の夏合宿で漢方薬を忘れやはり途中撤退した点にある)私を含め、体が大柄か太り気味といった点でも共通している。まあ簡単に言えばポンコツの隔離だが、ポンコツメンバー以外も相当疲労困憊だったから、先輩の身となった今では当然の処置かなと思う。

 とはいえポンコツ同士、お互いの馬鹿話で少し盛り上がった。それにも疲れてしまい気づけば寝ていたのだが、八時過ぎだろうか、異変がおこった。

寒気が体を突き刺した。冷たいものが直接肌触れる感じだ。何か、と思って目を覚ますと皆同じく起きていて、口々に寒い、冷たいとこぼしていた。その原因は、雨が直接テント内に侵入してきていたからだった。たしかに烈風が常にテントを打ち付けては来るのだが、これまでテントに雨が直接入り込むことはなかった。かと言って外に出れば低体温で死にそうだし、出たくはないが、皆それは同じだった。そういうわけで最初は身を寄せ合いながら耐えたが、二人が段々ヤバくなっていくように見えた。彼らは高山病の症状は出ていなかったわけではないので、自分と違って十分に休めたわけではない。結局、俺が動くしかないと思い外に出た。すると、テントに外付けるフライシートが見当たらない。探したかったが、烈風と風がその気力をへし折った。取り敢えず中に戻り、現状を報告した。

その後、私が何をしたかはっきり覚えていない。この二人は疲労で外に出ることなど到底無理な話で、誰かの助けを呼ぶ必要がありそうだった。叫んだかもしれないし、ライトを点滅させてSOSを伝えたかもしれないし、ただじっと待っていたかもしれない。覚えているのは、それから10分ぐらいたった後にテントをライトが照らしてきて、先輩や同期の連中の顔が見えたことだ。彼らは、「お前らはそこで休んどけ」って感じで、そとでライトを照らし続けた。しばらくして、「お前らんとこのフライシートが風でめくれてたんで張りなおしておいた。これで多分大丈夫」的なことを言っていた。おかげで快眠することが出来た。風の音は怖かったが。

 

結局翌朝になって、五時になったが出発命令は出ず、待機命令が出た。たしか七時くらいになって撤退(エスケープ)が決定された。当然と言えば当然であろう。たまたま肩の小屋で会った一橋大山岳部は北岳には行ったようだが、我々は無理だった。先輩は行きたがって残念そうだったが、もう私には十分だった。名残惜しみつつ、来た道を戻っていった。先輩とか同期の一部は、「北岳に来ただけだった」と嘆いていた。

 

甲府にもどり娑婆に帰ってきた感じがすごかった。温泉に入りたかったので、女の先輩と石和温泉で列車を降り、かんぽの湯に入った。施設の割に入湯料が安いのが魅力的だ。

かんぽの湯には面白い出来事が一つあったので紹介しよう。風呂あがり、先輩とロビーでゆっくりしていたが、そこの中年の女の客と晩年の野際陽子みたいな女性従業員がいた。その会話がなかなか面白かった。

どうも客は自分の容姿に自信があるのか、鏡の前で自分の顔を賛美していた。「ほんとここの温泉に来ると若返るわ♪」こんな調子だ。しまいに、「見て!この肌。温泉に入ってすべすべだわ」大よそこんなことをのたまっていた。すると、従業員は奥深い笑顔で、「この鏡はほんとうに綺麗でお客様の御顔が隅々まではっきりと見えますわ」と言った。暗に客のしわ、たるみを揶揄しているのだろう。これを聞いた客は、ぴたりと自慢をやめてどこかに去った。我々がその様を見ていたのに気づいた従業員は、ふっと微笑を浮かべてバックヤードに去った。一連の関係者いなくなったを見て二人で大爆笑した。

 

 

 

こんなわけで北岳の旅は終わった。まあコンディション的にはこの上なく最悪だったし、いろいろとトラウマが残る山行だった。実際、同期もここで山の厳しさを知り、挫折を感じた奴も多い。ただ、今になって思えばとても貴重な経験だったし、何だかんだバカやって楽しかったなと思う。そして、雨が侵入するテントに苦しんでいた時、人生で初めて人の上に立って色んなことをすることに迫られたような気がするし、テントを立て直してくれた同期たちには頭が上がらないからこそ、彼らに追いつきたいと思った。そういう意味で、ある種転換点のような山行であったと感じている。


追記

2021年の8月7日、北岳へのリベンジに成功!と言っても、広河原からピストンしただけだし、19年ほどではないにせよ、山頂ではやはりガスってた。できれば、奈良田から間ノ岳に向かうか、夜叉神峠から池山吊尾根を経由するルートを試してみたい。

行程のゴミっぷりは拍車がかかっており、我ながらよくやったなと感心する。

行程

8/6 新宿23:00かいじ59号

8/7→甲府0:37 ステビバ

4:35 山梨交通→広河原6:30

広河原7:00〜白根御池小屋9:00/9:10〜肩の小屋11:40/11:50〜北岳1235/12:50〜肩の小屋13:25/13:30〜白根御池小屋14:55/15:20〜広河原16:35

16:40→甲府駅18:40

甲府駅ほうとうを食す



北海道ひとり旅 ①北への憧れと山との出会い

今回は、北海道への旅に至るまでの背景を、中学時代を中心に綴りながら、六月までのワンゲルでの活動も話そうと思う。ちなみに、まったくもって北海道の話は出てこないし、何ならまだ七月にすら入っていない。

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まず、なぜ北海道か。これは単純で行きたかったからである。行くことが少年時代の夢だったからである。特に、その次のGWに廃止が決まっていた札沼線の末端区間、そしてサロベツ原野に強い憧れがあった。

また、大学をさぼってまでなぜこの季節にしたか。勿論、大学をさぼって旅をすることに憧れていたのも事実だ。だがそれより、まず七月からが東日本・北日本パスの利用可能期間だった、というのが大きい。7日連続なら乗り放題というのは、乗り鉄屋からすると非常に心強い存在だ。また、初夏ともいえる七月初旬~中旬ならそこまでは混まないだろうという目論見もあった。そして、なんとなく、サロベツ原野の一番美しい時期ではないか、という妄想があった。

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『北帰行殺人事件』。ミリオンセラーシリーズの一つで、西村京太郎の作品では、『寝台特急殺人事件』や『終着駅殺人事件』に次いで人気が高い。

やや話が逸れる。中学生になって初めて小説に手を出したのだが、その記念すべき一人目の小説家が西村京太郎だった。その中でも、『北帰行殺人事件』が好きだった。凌辱され自殺した恋人の無念を晴らすため、元刑事橋本は故郷稚内を目指しながら私刑の旅に出る。その中で、恋人を思い出すシーンがあって、曰く、もしあいつが生きていたら初夏のサロベツを訪ねて、エゾカンゾウの花畑を見せてあげたかった、と。この描写をみて、14歳の少年はサロベツの思いを募らせていった。恋人は、『北帰行』という歌が好きだった。(現実世界では小林旭が歌っている。)この歌がよく橋本の孤独に調和していて、非常に良い。

 

北帰行 作詞・作曲 宇田博

一、 窓は夜露に濡れて 都既に遠のく 北へ帰る旅人ひとり 涙流れてやまず

二、 夢は空しく消えて 今日も闇をさすらう 遠き想いはかなき希望 恩愛我を去りぬ

三、 今は黙して往かん 何をまた語るべき さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの街か 明日はいずこの街か

 

この歌は、歌詞だけで中学生の私に来るものがあった。橋本がこの歌をカフェで聞いて蒼ざめるというシーンがあるが、その気持ちがよく分かった。この歌は全てを失った者が行きつく墓場への旅を歌ったように思えた。何というか、北の大地の北の端の海に抱かれて死ぬのも良いな、と思った。

思えば、中学生の私は(今冷静に考えれば明らかに私の方にかなり問題があったのだが)、友達も少なくて、というか嫌われ者で、流行に疎く、かと言って趣味の鉄道知識を活かせることもなかったから、自分という存在が意味のないものだという意識がとても強かった。ただ、将来日本全国を鉄道で旅するという夢だけがあって、それまでは死にきれないという思いがあり、その夢を叶えることだけが生きがいだった。取り敢えず死ぬ前に北の海に対峙してみたかった。行けば、なんとなく何かが見つかるような気がした。

 

まあ、要は7月初旬は何となく原野の花畑が美しそうだと思っていたからこの時期に行こうと決めたのだが、行先が道東とかではなくてサロベツなのは、この辺の事情による。少年時代の夢というのも、おおよそこんなところだ。

だからこの旅は、大学に入る前から、人生における一大イベントと位置付けていた。旅の計画自体は、中学時代から立てていたが、大学に入り授業や部活の兼ね合いから現実的に可能な方向性を探った末、本計画は5月に完成した。

 

次に、この旅とは切っても切れない部活(ワンゲル)との関係について述べよう。

まず、大学に入ってからの主な旅の遍歴を記そう。

①5/1~5/3 妙高 小屋

②5/11 新人錬成山行1 丹沢山

③5/26 岩場B 乾徳山

④6/8~6/9 新人錬成山行2 瑞牆山金峰山

⑤7/5~7/7 新人錬成山行3 北岳

⑥7/9~7/14 北海道の旅

 

これから分かるように、5、6月は基本ワンゲル関係で山に行きまくった。それも中央線沿線が殆どだった。それはともかくとして、なぜワンゲルに入ったのか。それは至極単純。

野宿に慣れるためである。

 

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少年時代に最も影響を受けた本を挙げろと言われたら、横見浩彦浩氏のこの本だろう。それくらい、少年時代の私は旅に憧れていたし、彼みたいに自由に生きてみたかった。

私が野宿旅に憧れた始めたのは、やはり中学時代に遡る。私の中学の図書館には、『すごい駅』という本があった。これはある二名が日本の地味だがかなり見ごたえのある駅を100個対談形式で紹介するという本だ。で、そのある二名とは、横見浩彦氏と牛山隆信氏である。前者はJR・私鉄全駅全下車で名を馳せた方で、後者は秘境駅探訪の始祖と言える人物だ。この二人の本は地元の市立図書館に行って借りまくった。当時ソフトテニス部に所属していたが、寝坊癖が酷く、土日の練習に遅刻が確定すると、陰キャ社会不適合を極めていた私は、無断欠席をしたあげく図書館まで自転車を20分位漕いで、図書館で彼らの本を読み漁っていたほどだ。

そうして読んだ本の中で、彼らは当たり前のように野宿をしている。まあ、金がないのだろう。北海道ちほく高原鉄道の川上駅で厳冬期に駅寝して死にかけた話、寝床をホームレスに占領され跨線橋とホームの間で寝た話など、なかなかハードな話も多い。しかし、中学生の私はそういうものに憧れを持った。なんか自由だし、絶対誰も追従する奴など同世代にはいないだろう。当時は私にも自己というものがなく、俺は特別なのだという権威を渇望していた。だから、とにかく人と違うことがしたかった。(だから、当時は部活や恋愛に全く興味がなかったのだろう。)それに野宿なら金も抑えられるし、金銭面で難色を示している母親も許してくれる筈だと本気で思っていた。もっとも、旅の方向性が先鋭化してることがかえって母の旅への態度を硬化させてしまっていることには、気づいていなかった。

でも、現実的には野宿をやる度胸もないし、やり方も分からない。慣れも必要だろう。だから、いきなりやる前に慣れを掴もうと思った。その慣れを掴めそうなのは、山岳部しかない。山岳部に入れば野宿をやれる。だから、いつか山関係の部活をしよう、とはうっすらその時点から決めていた。

だが、高校では山岳部には入らなかった。なぜか。一つには、母がいっこうに野宿を許してくれないし、高校でも親元で過ごす以上、野宿なんてさせてくれないことに、やっと気づいたのもある。だがそれ以上に、実は県立高校の入試に落ち、それが死ぬほど悔しくてその段階で東大に行こうと決めてしまったのが一番大きい。2chの受験スレに出て来そうなくらい典型的な学歴コンプっぷりで我ながら苦笑するしかないのだが、そういうわけで、高校で部活をする気が起こらなかった。あと、山岳部のうるさそうな雰囲気がなんか嫌いだった。クラスで当時一番賑やかだった(?)女子が入っていたのもあり、ないな、と思った。(まあここまで学歴コンプが酷いと、まともにクラスメートと馴染めるはずもないのだが、、)

 その後東大に関しては初志貫徹して浪人までしたが、ダメだった。まあ別にそれはそれで良いのだ。勉強自体は楽しかったし、数学ができたので人権を失うことはなく、高校生活自体はまあ楽しかった。どうせ野宿旅なんてできそうもないけど、それでもいいと思った。しかし、浪人の期間中、大学生活について考える中で、今まで見たいに勉強一本だけでは絶対にやっていけないと思ったし、やはりやりたいことはやった方がいいと思った。そう思うと、野宿の旅も諦めるにはまだ早いし、絶対にやろうと思った。そしてそのためには、登山系のサークルに入ろうかなと漠然と考えていた。

 その後、今の大学に入学し入学式で勧誘パンフレットの束を貰って、新歓を見た。いろいろあるが、なんとなく野宿に向きそうなのはワンゲルな気がした。そうは言ってもタダ飯にありつきたいから、新歓自体には行きまくった。身長の割に肩幅だけ広いのもあり、アメフトに強く勧誘された。入れという圧がすごかったが、タダで飯を食うことしか考えなかった。先輩方には申し訳ないと思いつつ、貪り食った。あれも良い思い出だ。あるいは、一時期色気づいた時期があって、俺がテニサーになったら面白いんじゃね?と思ったこともあったが、大学のメインストリートで女の子ばかりに声をかける金髪をみて、こいつらにはなれん、と思って諦めた。まあ正解だった。

 で、ワンゲルの新歓はというと、入部説明会を部室でやるから放課後来い、ということで来てみると、狭く汚い部室に多くの新入生が集まっていて、概要を説明されたのちは、大学の許可を取ったIHを用いて料理会が始まった。炊き込みご飯だったと思うが、具や水の分量が適当でまずかった。まずいまずいと笑いながら先輩方が色々足したりしているから、もはや何が何だかよく分からない。結局余った米と人参だけ貰って帰った。思えばこれがワンゲルとの出会いだった。

 その後、新歓で小屋に連れてってくれるということで、令和の瞬間を渋谷のスクランブルで野次馬した翌日の夜、荻窪駅で待ち合わせして車に乗った。四人だった。70くらいの爺さんだった(実はワンゲルのOBで送ってくれた)。3年の先輩も新入生説明会にはいなくて知らない顔だった。一年はもう一人いたが、気が強そうで薄情そうな都会風の男だ。新入生説明会でもいたような気がするが、一番とっつきにくいというか、できれば一緒にいたくないと思っていた男だった。こんなんだから、車内は当然みんな無言で、もう一人の新入生がずっとiPadでゲームばかりしている。つまらなかったが、関越道を120kmで走っているのがとにかく気持ち良かった。藤岡のJCT上信越道に入り、碓氷トンネルを越えてから眼下に見下ろす佐久の盆地が美しかった。ICを下りると、まだ雪がところどころ残っていた。九州人からすれば五月のこの時期に雪なんて最高すぎる。テンションが上がった。

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小屋とその周りで

 小屋に着くと、先発していた先輩方がいた。主将と副将だ。彼らが待ってたよと言わんばかりにウイスキー水割りを注いでくる。「無理して飲まなくていいからね」とは言うが、もう一人の同期が躊躇なく速攻で飲んでいるから、俺も飲まんといかんやんけ。まあ、良いかと思い、普通に飲んだ。うーん。何がうまいのだろうか。

 それから雑談タイムに入る。自己紹介からだが、30分も経つと話が酷くなっていく。段々下ネタの方向に変わっていく。いや、こいつ女だろと思ったが、彼女もまた続ける。

「高校ん時部活でさ、先輩の女子が膝を曲げてストレッチしてたのよ。でさ、それ何やってるんですか、って聞いたらさ、M字開脚の練習ってさ。」

 まあ、こんな具合だ。私の中で女子には下ネタを全く触れないように、女子はみんなそういうのが嫌いだから、と思ってきたがなんだこれは。こんな人いるのか、と衝撃を受けた。その後、私も調子に乗って、母校に伝わる都市伝説をぶちまけた。これはまあ、母校が男子校だった頃、生徒会長と副生徒会長が生徒会長室で致して、それが教員に見つかり、さらにしかも抜けなくなって二人が接合した状態で緊急搬送された、というものだ。なぜか、福岡県の男子中学生は皆この話を知っている。「ひげ男爵のひぐちくんが修猷館出身で、母校といえば生徒会長」というのは、よく知られた話だ。

 で、この話をするとかなり受けて、皆で爆笑していると、あの女先輩が更なる爆弾を投下した。要約すると、「その先輩の弟が中学生時代、性に目覚めてエロ漫画を自作するようになり(曰く死ぬほど上手いらしく、先輩は母とで感心しあってたらしい)、そのインプットとしてエロ動画を見まくるようになった。しかし問題は、家族の共用PCでそれを見てしかも履歴を消さなかった。それとなく言っても消さなかったらしい。そんな日々が続いていたある日、履歴に「熟女無修正」という単語が並んでいて、その日からしばらくその単語がずーと残っていたらしい。流石に心配になって、母親と先輩が協力して共用PCを監視していたら、犯人は、、父親だった。」というものだった。

あまりにも話が酷すぎて大爆笑していたら、運転をしてくれた70くらいの例の爺さんがいきなりスッと起きて、突然、「いやあ、君たち若いねえ」と言い始めた。そして壊れ始めた。

「俺も昔は毎日一人でしていたなー」「若いころは我慢できんかったー」云々。流石に先輩も爆笑しながら引いていた。「○○さん、今日はこのくらいにしておきましょうよ」とか言って、口が暴走している老人をなだめた。彼が再び眠りにつくと、皆で大爆笑しあった。

 これが私の新歓だった。こんな新歓があるんや、と思った。これを聞いて、この雰囲気を感じながら、この部で間違いないと確信した。やばい。なんだこの自由人の集まりは。こんな最高なとこないぞ、と思った。が、これはまだ序章に過ぎなかった。

 

 三時になって後発隊の連中がやってくる。説明会で仲良くなった奴が多かった。その後九時まで爆睡していると、雪下ろしの作業が始まった。案外積雪があったようで、大変だったが、やはり雪というだけでテンションが上がる九州人の性だ。その後、小屋の冬支度を解いて夏仕様にするため、冬用の外壁の板の取り外しや井戸の復旧作業、BBQ用の竈を掘り出しす作業等を行った。気づけば13時半で、先輩が炊き出しをしてくれた。

 問題はここからだった。先ほどの作業で、為すべきことは大抵やった。暇だった。だから、OBさんが小屋周辺を案内して、「ここの斜面で昔は雪上訓練していたんだ」とか教えてくれた。そして、近くに仙人池という池があるから、そこに皆で行こうという話になった。

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仙人池。OB曰くGWまで氷結することは珍しいとか

 で、行くと池は氷結していた。すげえと思って近づいてみると、まあまあ水深は深く氷の上から水の緩やかな対流が透けて見えた。怖いな、と思ってみていると、同期が池の氷の上を歩き始めた。短躯で小柄な同期だった。えっ?と呆気に取られていると、そいつは私の顔を見据えて、

 「おい、デブ、来いよ!」

と煽ってきた。

ここまで言われておいて動かないのは男の名が廃るというものだ。「おう、言われんでも分かっとるわ!」と吐き捨てて彼の後ろを追いかけた。しかし、意外と足場は安定しとる、行けるぞ、と思った。しかし、やはり氷も薄い部分はあるのでうまく足の置き場は選ばないといけない。案外悩む作業だ。

しばらく考えて次なる足場に前足をかけようとした時だった。後ろ脚の足場が沈んだ感覚があった。その瞬間一気に氷が割れて後ろ足が一気に鉛直方向に吸い込まれた。続いて尻、前足の順に沈んだ。足、そして股間に強い刺激が走る。ヤバい。どこまで落下するんや、と命の危機を感じたが、腰より上は奇跡的に浮いた。冷たいがここを這い上がれば助かる。でも、這い上がるときに掴まる氷が薄かったら再度ドボンだ。慎重に選びながら、何とか地上に復帰した。

地上に復帰すると、靴が冷たくて履いていられない。でも脱ぐと雪に覆われた地面。凍える下半身を震わせながら、先輩たちが来るまで近くの木の株につかまった。当の先輩や同期の連中は心配しつつ大爆笑していた。顔が笑いを我慢できない様子だった。下半身が冷たい!(物理)と喘ぎながら小屋への道を戻った。小屋でも小屋待機組に大爆笑された。念のためズボンを二着持ってきていたのが幸いだったが、しばらくは動く気にもなれず、こたつで猫になった。

まあこれが私の新歓だった。今にして思えば、何だかんだツイていたと思う。元々ドジ間抜けの素質を持っていたが、ここまで効果的に発揮されることなどないだろう。それに池ポチャしたにもかかわらず、スマホはジャンパーのポッケに入れていたから無事だった。実害と言える実害は寒かったことだけだったと言える。これが胸の高さまで沈んでいたら心臓発作もありえたが、良い具合に腰までで済んだ。この誰も苦しまず良い具合にネタに落ち着くあたり、なかなか私ではないか。さらに、実はこのシーン、たまたま先輩が動画で撮っていた。純粋にのんびり氷上歩行を楽しむ様を撮っていただけなのだが、タダのネタビデオになってしまった。しかも、この映像は新歓コンパでがっつり晒上げに遭い、私の醜態は部内で完全に知るところになってしまった。

 

まあこういうことがあって、小屋最終日には、俺がこの部に入るのは運命なんだな、と本気で思った。良くも悪くも、これが原因で皆からある意味もてはやされたし、話題の中心に上がってしまった。今まで地味な存在として人生を歩んできたが、ここでは中心になれそうな気がした。実際、今となっては私が主将に、一緒に氷上歩行をした奴は副将になった。何という因果であろうか。

まあ、まだこの時期ではそこまでは分からなかったにせよ、なんとなく大学生活においては一人ぼっちになることはないような気がした。これまでの人生は独りぼっちが常だったが、なんかそれまでとの不連続を感じた。そもそも野宿旅は一人ぼっちだからという前提があったから、これから旅に関する考え方ももしかしたら変わるのかなあと思った。

 

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富士見平の夜。先輩に地ビールをおごってもらい晩酌

その後、前述したように、丹沢山乾徳山を日帰りで行った後に、念願の幕営山行を六月初旬に奥秩父瑞牆山直下の富士見平でやった。瑞牆と金峰に行ったときの隊には、やたら鉄オタが多かった。だから、とても楽しかった。同時に、テント泊とはこういうものか、と理解できた。と言ってもまかっせきりだったが。あと、隊の中で一番体力があってかつ一番態度がデカい同期が、贅沢に寝返りを打つものだから、無茶苦茶うざいと思った。まあそれでも全体としては楽しかったし、テン泊ができた時点で、野宿に慣れるという本来の入部目的は達成されたようなものだ。計画も仕上がったし、いよいよだ、と胸を膨らませていた六月だった。

プロローグ Tong Poo!

こんなしょうもないブログに飽きずに見てくださっている読者の皆様、お久しぶりです。天狗ヶ城です。前作『砂の鏡を探して』では、2019年の12月に旅した、谷川岳石鎚山の記録を綴って参りました。今作『Tong Pooの中で』では、2019年の夏から秋にかけての旅の記録を綴って行こうと思います。

思えば、私の旅遍歴は小6の時に大阪の叔母を訪ねて18切符で山陽本線を乗り継いだことから始まりますが、私の母はあまり旅をさせてくれない人で、高校までは費用的にも日帰り旅行が限界でした。そのため、行先は主に九州北部、長門、人吉周辺に限られていました。そのため、大学で上京した2019年の春からが、行きたいところへ行けるという意味では、本格的な旅の始まりだと言えます。一方で、大学ではワンゲルに入り山に連れてってもらう中で、次第に山にのめり込み、今では旅の主眼が山に移ってしまいました。、

そこで、九州人の私が上京して関東の風を浴びながら、乗り鉄趣味を極めつつ次第に山にのめり込むようになった前段階の時期と言える、2019年前半の旅の中でも、特に思い出深い二つの旅を中心に取り上げてみようと思います。一つは七月の北海道の旅(7/9~7/14)、二つ目は秋のローカル線乗り継ぎ旅(10/25~10/28)です。その他の旅についても言及しようとは思いますが、中心はこの二つの旅の記録となるでしょう。今回はプロローグということで、この二つの旅の行程だけ記しておきます。前作以上に更新に時間がかかりそうですが、どうかよろしくお願いします。

 

 

①北海道の旅

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抜海駅から歩く

 

7/9 最寄り駅→→宇都宮→黒磯→新白河→郡山→福島→仙台→松島→小牛田→一ノ関→盛岡→大館→青森~

7/10 ~函館→森→長万部倶知安→小樽→札幌→石狩当別石狩月形

7/11 石狩月形新十津川⇒滝川→深川→留萌→深川→旭川→東六線→名寄→音威子府

7/12 音威子府→咲来…天塩川温泉→豊清水→抜海…稚内→勇知→下沼

7/13 下沼→日進…名寄→塩狩旭川→滝川→岩見沢→苫小牧~

7/14 ~大洗…→水戸→東京→→最寄り駅

 

②ローカル線乗り継ぎの旅

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今は亡き、キハ40の交換(会津宮下駅

10/25 最寄り駅→→宇都宮→黒磯→新白河→米沢→坂町→間島→新津→新潟→会津若松

10/26 会津若松会津川口⇒只見→小出→宮内→直江津→泊→富山→金沢→福井→越前大野

10/27 越前大野九頭竜湖…美濃白鳥→みなみ子宝温泉美濃太田→多治見→名古屋⇒

10/28 ⇒バスタ新宿

 

→:鉄道移動 ⇒:バス移動 ~:フェリー移動 …:徒歩