東風を浴びて

東の国から西の果てへ 南の島北の果てどこまでも行く

北海道ひとり旅 ②前段2 地獄の北岳

久々に時間が取れそうなので、しばらく放棄していたブログを再開しよう。といっても、まだ北海道の旅に入らない。というか、一応今は期末の期間なので、そんなに長い話を書く気はないし、内容的にも今回の話は短めの方が良いというのが大きい。と思ったが、普通に長くなってしまった。

 

①5/1~5/3 妙高 小屋

②5/11 新人錬成山行1 丹沢山

③5/26 岩場B 乾徳山

④6/8~6/9 新人錬成山行2 瑞牆山金峰山

⑤7/5~7/7 新人錬成山行3 北岳

⑥7/9~7/14 北海道の旅

 

前回に、北海道の旅までに行った山山について紹介したが、改めて再掲する。前回は、妙高の小屋の話を中心に、新錬2の瑞牆・金峰までの道のりを紹介した。今回は、新錬3の北岳の件について話そう。

 

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北岳肩の小屋から。北岳。(先輩撮影?)

 

正確な日時は忘れたが、六月の中旬には北海道の旅の計画はできていた。日程は7/9(火)~7/14(日)とした。問題はどうしてこの時期になったのか。

こういう貧乏旅行には激安乗り放題切符が不可欠なのだが、今回は「北日本・東日本パス」がそれに該当する。その利用可能期間は7月1日(月)からなので自ずとそれ以降の時期に限られる。また、7/5~7/7でワンゲルで北岳に行くというから、それ以降にしよう、となった。あとは、当時月曜に日本国憲法という講義を取っていたのだが、この講師がなかなかレポートの採点が辛く、期末前のレポート点の段階で落単の危機が迫っていた以上、さぼるわけには行かなかった。だから、この日程にした。

北岳について、主将の先輩いわく、「一年生で穂高に行きたいなら、この合宿に来てもらわないと困る、いわば北アルプスの前哨戦だ」。当時別に山に格別の思い入れがあった訳ではない。あくまで野宿で一人旅をしていくための準備期間という位置づけだった。別に槍とか大キレットなんて越えれたらカッコイイな、ぐらいの気だった。どうせ先輩が連れてって呉れるだろう、そんな思いがあった。なんせ、今は憧れの北海道に行けることを夢見て夢中だったから。

このように、この時期においては、山は「先輩に連れていって貰うもの」という認識があった。やる気もなかった。まともにとレーニングらしい走り込みとか歩荷で階段上下とか、まるで記憶にない。結果的に八月の槍穂高縦走は成功したわけだが、もし先輩がこんな実態を知っていたらマジ切れされたに違いない。審査会があれば、間違いなく行くことを認めてもらえなかっただろう。

そういう経緯もあって、北岳には無茶苦茶行きたくなかった。中止になれとさえ思っていた。俺の中では北海道の旅が一番大事だから、その直前の週末に南アルプスに行くのがたまらなく不快だった。思えば、北海道の旅では、問寒別から雄信内までを三時間くらいかけて歩くことを計画していたが、そこでヒグマに遭うことを何となく信じていた。自己憐憫に陥りたかったナルシズムもあったし、実際結構不安だった。当時の自分としては、命を懸けてそこを旅するという思いがあった。(もっとも、以後幾つかの山の旅では、命を懸けてそこに登るという意識がこびりついているわけだが)今にして思うとただのビビりだと一笑に付せるが、当時としては正当な恐怖だったと思う。そういうわけで、命がけの旅の前に北岳に行くのが嫌で仕方なかった。

 

そんなわけで、若干の妨害工作も行った。北岳へは、甲府から南アルプス林道(当然マイカー規制)を通る山梨交通のバスに乗って、広河原という拠点基地で降りてから登る。そこで、山梨交通の運行状況を調べて、それが運休ならやめにしませんか?と先輩に(クソ生意気にも)「上奏」しようとした。幸運にも(?)、7月の2日だったか3日だったか、バスの運休情報が山梨交通のHPから出ていた。南アルプス林道の通行止めが原因だった。内心よっしゃ!と思いながら主将にその件を話した。「わかった、ありがとう」と返信をいただいた。

実のところ、週末は天気が怪しかった。多分やらないだろうと確信していた。

 

 

が、木曜の夜になって愕然とした。LINEで食材の買い出しの分担の話になっていた。完全にやる流れだ。先輩も「前回の瑞牆も雨予報だったのにしっかり晴れた。今回も雨予報だけど山の天気は変わりやすいからワンチャン行けるだろう」的なことを言っている。ああ、ここまで来ると諦めるしかないんだな、と悟った。

ちなみに、20年の一月になって主将と面と向かって色々山に関して議論したとき、主将が、実際やりたくないし天気は絶対最悪だろうな、と思っていたことを知った。正直、皆そう思っていただろう。それでも、北岳を外して北アルプスに行くのは考えられないから、強行するしかなかった、と話していたような気がする。一月くらいの時期には、自分も主将なら行かせただろうと思った。

 

まあともあれ、北岳には行くことが決まってしまった。

 

 

 翌5日金曜日。いつものように簿記の講義を受ける。いつもと違うのは、家に戻る時間がなかったので、登山靴を履いて馬鹿デカいザックを背負っていることだ。図書館に籠って若干の課題を済ませた後、大学を出て標高差50mほどの坂を駆け下り、駅前のスーパーで先輩に命じられた人参とかを調達し、最寄りの私鉄に乗り込む。JRに乗り換えると、そこは通学のラッシュアワーの時間に重なって座れない。体積も取るザックだから、立ち位置にも気を遣うし、ザックを下ろせない。30分くらいしてようやくザックを床に置くくらいのスペースの余裕ができる。しかし結局座れることはなく列車は八王子に着く。八王子から、松本行鈍行に乗り換える。始発駅だから座れた。疲れがどっと溜まったせいかすぐに眠りについた。

 ふっと目を覚ますと四方津だった。危ない、次の駅だ。そう、我々は梁川で降りるのだ。北岳に行くには広河原行のバスに乗る必要があることは先に述べたが、コースタイム的に甲府駅7時発に乗らないとキツイ。(ちなみに始発ではない、始発は4時半である!)当然関東圏からこんな時間に甲府には着けないし、どこかで前泊の必要が出る。実は甲府駅では半ば駅寝が公認されていて、山人たちが夜明のバスを待っていたりするのだが、主将にそこまでする気力は湧かなかったようで(というか、部内では私以外全員駅寝には反対するだろうが)、かと言ってホテルに泊まるのも馬鹿らしく、結局キャンプすることになった。(←なお、二年後の夏に甲府城で野宿して、北岳をピストンすることになることをまだ知らない...)で、先輩がたまたま見つけた駅近のキャンプ場が、梁川の「月尾根自然の森キャンプ場」だった。もっとも駅近と言っても徒歩25分くらいあったと思うが。

 余談だが、梁川に来るのは実は二度目だ。5月に乾徳山に行った塩山からの帰り、なんとなく気になって下りてみた。だから、地理は分かっていた。梁川駅からは、甲州街道の信号を渡ると、相模川に架かる橋がある。これを渡った先にキャンプ場はある。たまたま電車が同じだった同期と軽く雑談しながら、よく分からん夜道を歩く。舗装路を20分以上歩いてから川辺の方へ5分ほど歩けば、見覚えのある緑のドームテントがあった。先発していた先輩たちが準備してくれたのだ。

 私はABCDの計四隊のうちのC隊だった。C隊のメンバーは大体そろい、着々と夕食の準備を進めた。鍋だったと思う。レシピは先輩に任せたから特に覚えていない。何だかんだありながら20時くらいには飯にありついたような気がする。

 他の隊も着々と飯の準備を進める中、B隊の様子がおかしかった。元々授業が遅くまである学部の連中は来るのが遅いことは分かっていたのだが、逆に早く来れる奴もいる。問題は、B隊のメンバーの一人であり、早く来れるはずのメンバー、ここでは便宜的に甲と呼ぼう、が来ないのである。連絡もない。これはどうしたものか。この甲、実はコフェル(鍋)と着火装置を所持していた(たしか)。つまり、甲が来ない限り、B隊のメンバーは鍋を食えない。まあこの甲、結構抜けているところがあって、例えば、初っ端の新錬であれだけ水を十分持ってこいと散々先輩から言われたのに500㎖しか持って来ず脱水症状気味になる、新錬2ではなぜか水ではなくポカリ(しかも1.5L)を多めに持ってきてバテて(料理に使えない、水なら最悪の場合中身を捨てて荷を軽くできるのにそれができない)先輩を呆れさす、などの失態を犯している。そんなわけで、彼が今どういう状況にあるか何となく想像がついていた。恐ろしいことに、冗談半分で笑っていたこの予感は、当たっていたのである。

 「『あずさ』に乗って甲府まで行っちゃいました!」

 

 一応だが、梁川と甲府は60㎞くらい離れている。散々行き方については説明があったから普通は間違えようもない、はずなのだが。それに八王子・甲府ノンストップの「あずさ」に乗って間違えるあたり中々に芸術点が高い。全車指定席だから、指定券を取った段階で普通気づくだろうよ…

まあ、厳しく咎めるようなことはうちの部ではない。B隊の連中も、他の隊の連中に鍋を拝借すれば良いだけの話だった。それに、当時のワンゲルは毎回毎回何らかのやらかしをしでかす奴が出現したので、それをひたすらネタにする風潮があった。むしろ煽っていた。だから、こういうやらかしの出現を期待していた節さえあった。今でもたまに同期とか先輩に会うと、この辺のやらかし話は大いに盛り上がる。やらかしの歴史は、部全体にとって各山行のメルクマークですらあるのだ。

そんなわけで、甲がキャンプ場に着いた頃には23時を回っていたと思うが、とにかく合流した。そして寝るのだが、私のテントの位置はあまり良くなかったらしい。木から無数に雫がテントに落ちてきて、その音で眠れない。前回のキャンプとは睡眠の質が全然違う。野宿もこういう局面があるのか、と感じた。

たしか、三時半起床だったと思うが、まったく眠れなかった。適当に飯を食って撤収し、梁川からの電車に乗る。流石にみんな爆睡していたが、大月乗り換えだったから、自分は目を開けていた。が、このせいで覚醒状態になってしまったか、大月発の甲府行電車でもまったく眠れなかった。やばい、でもバスが眠れんかったら死ぬ、みたいなことを考えていた。

 

が、甲府駅に着くと、バス乗り場には長蛇の列ができていた。既に20近くいただろうか。ちなみにうちのワンゲルは20人くらいだ。流石に山梨交通には事前連絡を入れたし、まあ大丈夫だと思っていたのだが、来たバスは普通の路線バス一台だった。二号車とかワンゲルのための貸切バスは一切なかった。しかも、私はワンゲルの中でもほぼ最後尾だった。詰みゲ―だな、と一瞬で悟った。

案の定、部内でも明暗が分かれた。最前列にいた奴は座って出発して10分もせずにいびきをかいてやがる。逆に私はと言うと、中扉のステップの段差にうずくまっていた。ザックが邪魔だし体勢もきついから寝れたもんじゃない。振動も直に伝わって酔いそうだ。同じく憂き目に遭っている先輩と、ブツブツこぼしたり猥談で盛り上がったりして耐えた。ちなみに、愚痴は主に山梨交通に対するものであり、バスだからワンマン運転すればよいのになぜか50過ぎの女性添乗員も乗っていた。最初は無駄だろとか思っていたが、甲州弁のまるで何を言ってるのかよく分からない感じの軽妙なしゃべり口と、名人芸とも呼べる冗談を交えた車窓紹介などがとても面白く、先輩と爆笑しあった。

 

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広河原。アルピコ交通みたいに高速バスで運転して欲しい…

広河原について20分ほど準備やストレッチをした後、いよいよ出発となる。行程を先に示しておこう。こうだ。

 

7/6 9:30広河原→白峰御池山荘12:05/30→(草すべり経由)→北岳肩の小屋15:35

7/7 5:50肩の小屋→北岳6:40/50→間ノ岳9:30/40→野呂川越12:40→(両俣小屋)→野呂川出合15:30

 

 地図を見れば一目瞭然だが、二日目の行動距離はかなり長い。当時のワンゲルは「百名山&国内標高1~10位制覇プロジェクト」があって、この新錬3と夏合宿を通じ、赤石岳を除く9座に登る計画になっていた。北岳は標高2位(3193m)、間ノ岳は標高4位(3位とも、3190m)を誇る。だから、どうしても行きたいわけだが、間ノ岳を含めようとするとかなりタイトなスケジュールになる。当初では間ノ岳から北岳へ引き返しその途上にある北岳山荘からの分岐を曲がり、八本歯のコルを経由して下山する予定だったが、この時期は雪渓ルートなので除外せざるを得なかった。そういうわけで両俣小屋を経由しながら野呂川出合に落ち合うことになった。

 が、まったくの睡眠不足である私は不安しかなかった。こんな長距離に堪えられる気がしなかった。そんな不安をよそに南アルプスへの登山道に入り込む。

 

広河原から早川のつり橋を渡れば、しばらくは樹林帯の中をひたすら登る。無茶苦茶な急登ではないが、疲れは出てくる。基本的に鈍足の奴が先頭を務めることが多いので、必然的に自分が先頭になる。自分のせいで後ろが詰まっている感じなのでちょっと気を遣う。

12時頃だろうか、展望が突如開けてくる。もっともガスであまり見えないが。気が付けば御池山荘だった。やっと飯が食えそうだ。ふうっと息をつき荷を下ろす。

まあ飯と言えばカップ麺とかパンを買うのが定番だが、当時の私はまともにバイトをしておらず困窮を極めていたので、手作りチャーハンをおにぎりにして4つほど忍ばせていた。基本私は大学に手作りの弁当を持参していたが、週一でチャーハンを作っていた。うまいわけではないが、惰性で作っていた感じだった。

で、今回の旅も金曜の午前のうちに仕込んでおいて行動食としてザックに忍ばせていた。4つのうちの一個は昨夜に食ったから残りは3つだった。で、ここぞとばかりに口に入れるのが、…まずい。腐っていた。多湿なのだしザックに入れっぱだから当然だ。その瞬間ひどく嗚咽したい気分になった。が、恐ろしいことに俺の行動食はこれだけしかない。ないわけではないが、腹に溜まりそうなものはこれだけだ。水をがぶ飲みしたりカロリーメイトもどきを少し分けてもらったりして何とか耐えた。ちなみに、北岳の山行以降の人生において、手作りチャーハンを作ったのは三度しかない。手作りチャーハンはそれだけトラウマになった。

御池山荘を出るといよいよ草すべりである。まさに草地の急登という感じだが、まだ雪が残っていた。雪渓みたいなものだった。へりの方を慎重に滑らないように登っていく。これがなかなか疲れる。雪渓が終わると今度は九十九折状の登りである。最初は踏ん張ったが、次第に体力の限界が来た。最初の方で飛ばしすぎたのかもしれない。やがて、睡眠不足もあったか、きつくて前にすら進めない状況になり、10分ほど休ませてもらった。だが、状況は良くならない。すると、後発隊のD隊が追い付いてきた。C隊のメンバーとも協議しながら、C隊Ⅾ隊のメンバーを一人づつ出し合って私を見てくれることになり、他のメンバーは先に進むことになった。どうやら高山病の症状が出ていたようだ。御池山荘からは段々森林限界に近づくのだが、草すべりにしたってちょっとペースが早すぎたのかもしれない。もっとも、運動不足と言われたらたし蟹と認める外ないのだが。

他のメンバーの出発を見届けて五分後くらいにようやく我々は出発した。D隊の別の一人が我々と一緒に行動したので計4人だった。このメンバーは元山岳部出身の自由人なので、明らかに破線ルートみたいなところを勝手に登ったり好き放題していた。C、Dの二人は三年で、とても仲が良く、私の足が遅いので余裕綽綽と言った感じでダラダラ歩いている。それでも暇なので雑談に興じているようで、楽しそうだった。

そんな彼らが死にそうな顔をしている私を見て、「こいつ頑張ってるから、励ましの歌を歌おうぜ!やっぱ明るい歌がいいよね!」とか言い始めた。で、歌い始めたのが、…昔のドラえもんの主題歌だった。二人とも大声でイントロから面白おかしく歌い始めるのだが、…恐ろしく耳鳴りがし始めた。いやに共鳴する感じの音だった。おかげでかえって気分が悪くなった。松本清張の「砂の器」で超音波で人を殺す話があるが、それに似た不快感な気がした。「すみません、気持ちはありがたいんですけど、マジでやめてください」こう言うと、その様が相当ガチだったようで馬鹿笑いし始めた。元々うるさい二人だが、こういう人たちなんだなと納得した。ちなみに、彼らの仲は今でも極めて良好で、一部でカップルだとかデキテんじゃね?とか言われてる。

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稜線歩きも、このガスではあまり意味がない

そんなこんなで、特に展望を楽しむ余裕もなく粛々と登り続け15時40分頃、やっと肩の小屋に着いた。稜線には出ていたがガスでろくに景色もないのでどうでも良かった。まあ、とにかく休めるということで、先発隊が立ててくれたテントに入らせてもらった。そのテントは高山病経験者専用のテントになっていて、先発隊の同期数名が寝込んでいた。やはり、皆金峰で2500を経験したとはいえ、標高3000の肩の小屋まで行くにはそれなりに大変だったのだろう。

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肩の小屋。日本最高峰の幕営地を持つ小屋でもある

しばらくして夕食の時間となり、先輩に分けてもらった。その後、寝るテントの振り分けに入るが、今回はテントを5つ持ってきていた。ABCDで4・5テン、6・7テンを振り分け、余剰人員を残りの3人用テンにぶち込む算段になった。で、私は3テンにぶち込まれた。というか、3テンのメンバーは部内でもドジ間抜け気味な三名が集められた。(これはキャプテンの策謀だろう)前述の甲、あと足が強くない乙だった。乙は、初っ端の新錬で筋肉痛で丹沢山への登頂を諦め、その対処策としてボッタくりみたいな価格の漢方薬を持参したことがネタにされていた男だった。(このネタの神髄は、肝心の夏合宿で漢方薬を忘れやはり途中撤退した点にある)私を含め、体が大柄か太り気味といった点でも共通している。まあ簡単に言えばポンコツの隔離だが、ポンコツメンバー以外も相当疲労困憊だったから、先輩の身となった今では当然の処置かなと思う。

 とはいえポンコツ同士、お互いの馬鹿話で少し盛り上がった。それにも疲れてしまい気づけば寝ていたのだが、八時過ぎだろうか、異変がおこった。

寒気が体を突き刺した。冷たいものが直接肌触れる感じだ。何か、と思って目を覚ますと皆同じく起きていて、口々に寒い、冷たいとこぼしていた。その原因は、雨が直接テント内に侵入してきていたからだった。たしかに烈風が常にテントを打ち付けては来るのだが、これまでテントに雨が直接入り込むことはなかった。かと言って外に出れば低体温で死にそうだし、出たくはないが、皆それは同じだった。そういうわけで最初は身を寄せ合いながら耐えたが、二人が段々ヤバくなっていくように見えた。彼らは高山病の症状は出ていなかったわけではないので、自分と違って十分に休めたわけではない。結局、俺が動くしかないと思い外に出た。すると、テントに外付けるフライシートが見当たらない。探したかったが、烈風と風がその気力をへし折った。取り敢えず中に戻り、現状を報告した。

その後、私が何をしたかはっきり覚えていない。この二人は疲労で外に出ることなど到底無理な話で、誰かの助けを呼ぶ必要がありそうだった。叫んだかもしれないし、ライトを点滅させてSOSを伝えたかもしれないし、ただじっと待っていたかもしれない。覚えているのは、それから10分ぐらいたった後にテントをライトが照らしてきて、先輩や同期の連中の顔が見えたことだ。彼らは、「お前らはそこで休んどけ」って感じで、そとでライトを照らし続けた。しばらくして、「お前らんとこのフライシートが風でめくれてたんで張りなおしておいた。これで多分大丈夫」的なことを言っていた。おかげで快眠することが出来た。風の音は怖かったが。

 

結局翌朝になって、五時になったが出発命令は出ず、待機命令が出た。たしか七時くらいになって撤退(エスケープ)が決定された。当然と言えば当然であろう。たまたま肩の小屋で会った一橋大山岳部は北岳には行ったようだが、我々は無理だった。先輩は行きたがって残念そうだったが、もう私には十分だった。名残惜しみつつ、来た道を戻っていった。先輩とか同期の一部は、「北岳に来ただけだった」と嘆いていた。

 

甲府にもどり娑婆に帰ってきた感じがすごかった。温泉に入りたかったので、女の先輩と石和温泉で列車を降り、かんぽの湯に入った。施設の割に入湯料が安いのが魅力的だ。

かんぽの湯には面白い出来事が一つあったので紹介しよう。風呂あがり、先輩とロビーでゆっくりしていたが、そこの中年の女の客と晩年の野際陽子みたいな女性従業員がいた。その会話がなかなか面白かった。

どうも客は自分の容姿に自信があるのか、鏡の前で自分の顔を賛美していた。「ほんとここの温泉に来ると若返るわ♪」こんな調子だ。しまいに、「見て!この肌。温泉に入ってすべすべだわ」大よそこんなことをのたまっていた。すると、従業員は奥深い笑顔で、「この鏡はほんとうに綺麗でお客様の御顔が隅々まではっきりと見えますわ」と言った。暗に客のしわ、たるみを揶揄しているのだろう。これを聞いた客は、ぴたりと自慢をやめてどこかに去った。我々がその様を見ていたのに気づいた従業員は、ふっと微笑を浮かべてバックヤードに去った。一連の関係者いなくなったを見て二人で大爆笑した。

 

 

 

こんなわけで北岳の旅は終わった。まあコンディション的にはこの上なく最悪だったし、いろいろとトラウマが残る山行だった。実際、同期もここで山の厳しさを知り、挫折を感じた奴も多い。ただ、今になって思えばとても貴重な経験だったし、何だかんだバカやって楽しかったなと思う。そして、雨が侵入するテントに苦しんでいた時、人生で初めて人の上に立って色んなことをすることに迫られたような気がするし、テントを立て直してくれた同期たちには頭が上がらないからこそ、彼らに追いつきたいと思った。そういう意味で、ある種転換点のような山行であったと感じている。


追記

2021年の8月7日、北岳へのリベンジに成功!と言っても、広河原からピストンしただけだし、19年ほどではないにせよ、山頂ではやはりガスってた。できれば、奈良田から間ノ岳に向かうか、夜叉神峠から池山吊尾根を経由するルートを試してみたい。

行程のゴミっぷりは拍車がかかっており、我ながらよくやったなと感心する。

行程

8/6 新宿23:00かいじ59号

8/7→甲府0:37 ステビバ

4:35 山梨交通→広河原6:30

広河原7:00〜白根御池小屋9:00/9:10〜肩の小屋11:40/11:50〜北岳1235/12:50〜肩の小屋13:25/13:30〜白根御池小屋14:55/15:20〜広河原16:35

16:40→甲府駅18:40

甲府駅ほうとうを食す