東風を浴びて

東の国から西の果てへ 南の島北の果てどこまでも行く

北海道ひとり旅 ③1/3 東京~青森~石狩月形

 いよいよ本編である。2019年7月9日から14日に及ぶ六日間の旅の軌跡を記していきたい。まずは、7/9~7/10までの旅の記録について

 

【7月8日】

 北岳撤退の疲労も半ば残りながら大学に出た。必修の2限の英語は、どうせ5回までは休めるからとサボタージュした。だが、かといって大学に行かないわけにはいかなかった。もちろん課題も無視はできないし、当時はMy PCを持っていなかったから、図書館の共用PCを拝借するしかなかった。当時はwordやexcelスマホアプリの存在を知らなかったから、レポートの格闘場所は決まって図書館で閉館の21時45分ギリギリまで根詰めていたのだ。

 加えて、当時は鬼般教の「日本国憲法」を取っていた。教員は悪人では決してないのだが、レポートは授業をしっかり聞いていないと書けないし、採点も辛かった。教育学部は必修だが非教育の私が受講する道理はないのだが、何となくで履修していたのだ。

完全に余談だが、教室はとにかくうるさかった。先生が喋るのをやめた瞬間ウェイ系が大声で騒ぐのだ。かといって講義室の前方は真面目系で席が埋まっているし、どうもいけ好かない連中の近くに座らざるを得なかった。

そういうわけで、そんな教育の連中と仲良くなれるわけないし、ひたすらに孤軍奮闘を強いられた。しかも、私は昔から文章を綴るのが苦手で、レポートも二回提出してどちらも0点だった。一方、ワンゲルの教育の同期は通算で20点近く取っていて、うざいなと思っていた。俺とは頭の出来が違うんだなと劣等感にさいなまれ、その一方で彼に頭を下げてアドバイスを貰うのも非常に癪で、余計に孤軍奮闘の方向へ突っ走ってしまった。

ちなみに、レポートは三回提出で各配点は10、15、20点であり、この計45点とテスト55で成績評価される。この時点で大分落単リーチであることは容易に想像されるだろう。だから、翌日から旅行であるとか考えられず、ただ真面目に授業を聞いて論点整理するしかなかった。

結局真面目にやったので、教員にも(多分)温情もかけてもらい何とか可を貰うことができたので、1春の国憲に苦しめられた日々も今になってみると良い思い出である。なんだかんだ、のちの法学系の授業のレポートが嘘のように簡単に思えたし、何だかんだ法的三段論法の基礎は身についたように思う。この教員、Twitterエゴサもまあまあやってるし癖は強いが、後々役に立つから頑張れと、後輩(こんなブログ見てんのか?)には言っておこう。

 

完全に昔の授業の思い出話になったが、ともあれ、国憲の授業内容を復習しながら、家路に就いた。その後は粛々と準備を進めていった。

 

【7月9日】

発駅(省略)→宇都宮6:51/6:59→黒磯7:49/7:54→新白河8:18/8:27→郡山9:03

/9:25→福島10:11/10:40→(快)→仙台11:56/12:18→高城町12:47/13:08→松島海岸13:11 松島13:55→小牛田14:16/14:51→一ノ関15:39/15:45→盛岡17:16

18:03→大館20:52/20:55→(快)→青森22:13 青森港23:30(青函フェリー)→

 

 

当時の私は、親族の家に居候していた。山手線までは辛うじて歩ける距離だったので、山手線の始発に乗って、宇都宮線の始発宇都宮行に乗った。思えば、当時130円の大回り乗車をほとんどやってなかった。今となれば不思議だが、私も忙しかったのだろうか。だから、大宮からの宇都宮線は全くの初めてだった。本当はここで寝るはずだったが、むしろ未知の景色に目が行って寝るどころではなかった。広い草原が続く関東平野が、山がちな地形で育った九州人の心をとらえて離さなかった。景色は単調そのものだが、見入ってしまう何かがあったのだ。

黒磯から新白河の間の、山がちな感じも良い。秘境駅観察の趣味もあるから、過行く駅の観察も忘れない。高久や豊原のような鄙びた雰囲気も良いが、古い木造駅舎が残っていて町の代表のように威風堂々と佇んでいる黒田原も良い。

福島駅の構内に郵貯のATMがあることに気づき、嬉しくなった。実は当時の私は、郵貯郵貯のATMでしか金を下ろせないと思い込んでいた。手数料さえ払えばその辺のコンビニで下せることを本当に知らなかった。この事実が、翌日の行動に大きく作用することになるのだが、それは後々。が、所持金が増えて有頂天なあまり、ザックに横付けしていた銀マットをATMの中に忘れてしまった。仙台シティラビット3号の車内で気づいたときはもう遅かった。

仙石東北ラインの気動車高城町に着いた。仙台に着いた感慨もつかの間、牛タンを食べることなく列車に乗り込んだ。高城町から一駅折り返せば松島海岸駅だ。

 

私は松島という場所の響きが好きで昔から行ってみたいと思っていた。中学時代、「月日は百代の旅人にして」という、もはや説明不要であろう紀行文の冒頭がとにかく好きだった。日々の単調な生活が嫌で、芭蕉のように自由に旅することを夢想していた中学時代。そんな芭蕉が絶句したくらいの景勝地に、自分も行ってみたいと思うのはごく自然なことであった。

駅を出るとすぐに広い公園があって、店がたくさん並んでいる。なんもない平日の火曜日だから人は多くはないが、ままいる。

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五大堂

取り敢えず、観光らしいことをしよう。いくつかの橋を渡った先に、歴史を感じさせる木造建築が佇んでいる。五大堂である。調べてみると1604年に伊達政宗によって建立(正確には再建)されたようである。その先に見える太平洋はどこまでも穏やかな海だった。空はどんより曇っているし、平凡な景色に思えた。芭蕉の感慨が如何ほどであったかは全く分からなかった。ただ、8年前の大地震のニュースの記憶だけが頭をよぎり、静かな波打ち際をじっと眺めた。

人が言うところの松島の良さはよく分からなかったが、もう十分満喫したような気がした。時間はまだあったが、松島海岸の散策は止めにして、鈍行旅に戻って松島駅まで国道沿いを歩く。途中の小学校は道路からすぐに校庭に出られるので、どこか田舎ののんびりしていた空気を感じる。昼休みの時間のようで、鬼ごっこドッジボールに興じている。ただ自分はそれを横目で見ることしかできないと気づかされた。

松島から小牛田まで行くと、701系ロングシート地獄である。景色も単調でまともに起きてすらなかっただろう。一ノ関で乗り換えてからも特に記憶はなく、地元の高校生の談笑に起こされた。気が付けば盛岡だった。

盛岡はワンゲルの一個上の先輩の故郷でもある。事前に駅周辺で良い店はないですか、と聞いていたので、その店を探して歩く。が、時間的に行くのが難しいと知った。ノリで行けるだろうと高をくくっていたが、事前調査が甘すぎた。結局コンビニで軽く腹ごしらえをした。

盛岡からはIGRいわて銀河鉄道を経由する花輪線に乗り、大舘を目指した。好摩までは高校生が多いが、大更までに大分降りてしまい、座れるようになる。北森だった気がするが、学ランの高校生から駅に止めていた車に乗り込んで走らせていた姿がとても印象的だった。山岳路線の印象が強かった花輪線だが、想像以上に生活が見える路線だった。

大館に着くころには乗客は4~5人程度だった。大館は忠犬ハチ公生誕の地でもあるが、立ち寄る間もなく、隣のホームの快速青森行に乗る。東京から18きっぷを用いて一日で青森に行くなら、必ず避けては通れない列車である。

青森に着いた。22時20分になっていた。中学時代に西村京太郎を愛読していた身なので、青森駅は「終着駅殺人事件」「北帰行殺人事件」やらで親近感のある駅だった。1959年に完成したこの4代目駅舎は、鉄道と青函連絡船函をつなぐ北の玄関口として、青函トンネル開通後は快速海峡や特急スーパー白鳥への乗換駅として、そして北海道新幹線の開通後は青函輸送の主役を譲った一地方駅として、60年に渡って青森の町と旅行者たちを見つめてきた。今となってはスーパー白鳥さえ来なくなって広い構内が寂しい限りだが、あまりに長いホームを延々歩きながら、往時を偲ぶ。正面出口の「あおもりえき」の表示は、「終着駅殺人事件」の世界線そのもので、記念写真も撮ってもらった。

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今はなき青森駅4代目駅舎。

当時は知らなかったが、この二年後にこの駅舎は取り壊されて新しい5代目駅舎が完成したらしい。東口から西口へと続く長い跨線橋とその下の長く使われてないだろう線路の列が、かつての賑わいを教えてくれていた。今思えば、良い時期に訪れていたなと思う。

 

 

さて、ここでも相変わらず事前調査の甘さが災いし、時間的に青森港まで歩けないことが判明した。痛い出費だがタクシーを借りて港に向かい、青函フェリーの乗り場に向かった。二等の学割で1,600円だった。北日本・東日本パスの新幹線課金券は使い方次第ではかなり魅力的ではあるが、6000円(※当時は消費税が8%)とやはり高い。北海道新幹線が誕生してからはやはりフェリーが一番安上がりだ。

 

23時30分。函館港行きが出港した。宮島航路とは比にならない船体の大きさにワクワクしながらロビーでくつろぐ。しかし、そわそわして眠れない。

探検もかねて船内を歩いていると、ドライバーズルームという部屋があった。いつか誰かのブログで見かけたやつだった。昔の急行「きたぐに」とかにあったA開放寝台みたいな二段ベッド構造になっている。さすがに夏休み前の平日で客も少ない。十分な空きもあった。そこで、今日の寝床はここにした。まずい気もするが鍵で利用制限を設けているわけでもないので、今回は問題ナシ!ということにした。(笑)

 

さすが運ちゃん専用というだけあって、照明もいい具合に暗い。いつの間にか爆睡しており、気が付けば函館港で船員に起こされていた。

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函館港着!

 

【7月10日】

→函館港3:20/5:49→森7:43/8:00→東森8:04 森10:07→長万部11:18/13:18→倶知安14:57/15:18→小樽16:26/17:10→朝里17:20/17:30→桑園18:06/18:18→篠路18:35/19:06→石狩当別19:27/19:32→月ヶ岡19:57/20:27→中小屋20:32 本中小屋21:46→石狩月形22:03

 

 

 

青函フェリーの函館港は北大函館キャンパスに近い函館ターミナルとは違い、函館駅寄りの南側にある。もちろん駅は五稜郭の方が近い。それでも、やはり北海道の鉄路の玄関口は函館駅と信じて疑わなかったため、結局函館駅まで歩いた。BGMは当然、北島三郎で「函館の女」である。

函館駅に着き少し散策をしたところで、いよいよ列車に乗り込む。列車は5881D森行である。この5881Dは結構曲者で、いわゆる藤城線と砂原支線を経由して走る唯一の列車だ。鹿部など駒ヶ岳の東側を走る砂原線大沼公園などを通るバイパス線に主役を奪われた路線だと一瞬で分かるが、大して藤城線はかなり不思議な路線である。

もともと、本線の七飯~大沼間の下りは勾配が厳しく、途中の仁山にはスイッチバックが存在したくらいだ。そのため、運転の効率化のため下りの特急や貨物列車は藤城線を経由して仁山を経ずして大沼に向かっていた。しかし、北海道新幹線開業により、七飯~大沼間の途中駅の一つだった渡島大野駅新函館北斗駅に変わると、特急列車は藤城線経由をやめ、新函館北斗に停まるべく本線経由に戻された。よって、現在藤城線を経由する旅客列車は下りの3本だけである。5881Dはそのうちの数少ない一本だった。 たしかに路線の規格は良くて、原生林をコンクリ製の橋梁で直線状にぶち抜く感じが、優等列車街道であった時代を偲ばせる。しかし、国鉄型のキハ40は呪いをかけられたかのような鈍足で、バイパス線を登って行った。

鹿部付近からの内浦湾の景色に心を奪われていたら、東森だった。森で次の長万部行まで待っても良かったが、暇だったので一個前の東森で降りて森まで歩くことにした。東森はただの無人駅で特に何かが面白いわけではない。駅前の植物の繁茂がすごかったことと、純粋に便意がヤバくて駅前の町医者にトイレを借りたことくらいしか記憶にない。

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東森駅。一面一線の無人駅だが、1927年開業と歴史のある駅だ。

森駅に着いた。東森からの道は田舎の鄙びた漁村そのものだったように思う。個人的にはICカードnimocaがこの界隈のバス乗車券として普及している事実に驚いていた。九州それも福岡は西鉄沿線の人間からすると、西鉄の専売特許だと思っていたから猶更だ。跨線橋から見える駒ヶ岳の広い裾野を眺めながら、長万部行821Dを待った。

 

821Dは内浦湾沿いを走っていく。思った以上にトンネルが多く睡魔にも犯されるが、この辺りは廃秘境駅も多く車窓からの場所の同定も意外と楽しい。特に北豊津は駅舎の跡もあって分かりやすいが集落は消滅した雰囲気で本当に何もなく、なるほど廃止もやむ無しだと納得した。

長万部では2時間の空きがあったので、散歩したり町営図書館で本を読んだりした。東京理科大長万部キャンパスも少し気になったが、想像以上に遠くてパスした。かなやで「かにめし」を調達することも忘れなかった。

山線2943Dに乗って景色を眺めていたが、寝たり起きたりを繰り返していると、でっかい山が見えた。羊蹄山だった。

倶知安からの列車は高校生で混雑していた。ロングシートで無理やり寝た気になって寝た。列車は混雑をそのままに小樽に着いた。16時26分。

当初の予定では、朝里と銭函に降りようと思っていた。札樽間でもとりわけ朝里・銭函の海岸線は昔からのじっくり見てみたいと思っていたし、両者ともに日本海沿いの駅というから非常に興味があった。両駅とも普通しか止まらず、次は40分発である。でも、小樽駅の建築をじっくり観察したかったので、取り敢えず40分発を見送ってから朝里に向かった。

朝里は、日本海の海岸線沿いにある駅で、さらに東に進めば断崖絶壁の札樽の海岸線沿いを走る。国道からは少し外れていて鄙びた雰囲気があり、駅も無人駅である。軽く時間をつぶすにはちょうど良い。自販機があったのでコーヒーを買って待つことにした。自販機の前に立って小銭を取り出そうと財布の中身を見た。一万円くらい入っていた。だが、このタイミングでハッとなった。

そうだ、なぜ小樽で現金を引き出さなかったのか。もともと小樽の郵便局で引き出す予定だったのに。、当時の私は、数料さえ払えばその辺のコンビニで郵貯の金が下せることを知らなかった。(マジです)だから、郵便局で下すことしか考えられなかった。しかも、小さな郵便局のATMは大抵17時には閉まるから、郵便の仕分けをするレベルの大きめの郵便局を狙うしかない。

この時点で銭函に行く時間的余裕はなくなった。取り敢えず次の札幌方面行電車に乗って次の策を考えよう。以下は脳内での思考である。

 

(これから自分は札沼線に乗りに行き、石狩月形の旅館に泊まる。とすれば、札幌発18:45に乗って石狩月形行には間に合わせたい。郵便局は札幌駅周辺で探しても良いが、せっかくなら札沼線沿線で探してみるのも面白そうだ。駅近で市や区の代表レベルの郵便局がある駅を探すと、...篠路だ。篠路で降りよう。

それだったら、札幌には寄らずに桑園で降りて、桑園18:18発に乗って篠路で30分の空きの間に近くの篠路郵便局にいけば良い)

 

そういうわけで桑園で降りて札沼線に乗り、篠路で降りた。札沼線の混雑は殺人的だったが、運用が721系でしかもuシート車両に座れたから最高だった。これならむしろ石狩当別まで乗り通したかった。

篠路で無事本意を遂げると、石狩月形行に乗り込む。無駄に二両編成だった。

北海道医療大学を過ぎ、翌年のGWに廃止された区間に突入する。北海道医療大学付近はまだ草原地帯といった感じだが、次第に山が近づいているような気がした。やがて、列車は月ヶ岡に停まる。ここで途中下車することにした。石狩月形行は2時間後に来るから、それまでの間多分二度と来ることはないであろう途中駅を訪問したかったのだ。

月ヶ岡は北海道にきて初めて見た「貨車駅」だった。本当に貨車なんだと驚いた。この駅は貨車の待合室のほかにログハウスみたいなトイレもあり、割と豪華な部類だった。地元の高校生っぽい子がランニングをしていて怪訝そうにこちらを見てくるのでいたたまれない気分になる。駅前は一応国道が走っているが往来はそう多くなく、街灯が少ない。ヘッドライトさえあれば十分な土地なんだろう。

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中小屋駅内部。「貨車駅」は貨物用貨車を改造したもので、北海道各地に存在するが、最近ではこれさえも改築の対象になりつつある。

月ヶ岡から一駅戻って中小屋で降りる。ここも「貨車駅」だ。駅ノートを軽く書き上げたら、さら本中小屋まで歩く。駅間の歩きは秘境駅ヲタクの伝統芸である。歩道はあったと思うが、やはり通り過ぎる車が早すぎる。虫の音と通り過ぎていく車の爆音しか聞こえない。ある意味人の匂いは全くなく、時折道路沿いに点在する廃墟の数々が孤独感を増幅させる。

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光があるな、と思って近づくとこれである。下手なホラーよりよっぽど怖い

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田舎の国道沿いあるある。だが、色んな意味で近づきたくない

一時間ほど孤独を感じながら歩くと、本中小屋に着いた。ここもやはり「貨車駅」で既に飽きがきた。高々二時間で同じような構造の駅に三つも出会うとゲシュタルト崩壊しそうだ。しばらく待って石狩月形行に乗り、石狩月形に着いた。

この駅は交換設備も備えた駅で、駅舎も立派な木造だった。いかにも地方の小都市の中心部って感じの駅で久々に人間の生活の匂いがあった。

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石狩月形駅舎。一面二線で折り返し列車も設定されていた。札沼線の部分廃止に最後まで抵抗していたのが月形町だったくらいで、沿線では栄えている部類に入る

さて、駅から十分ほど歩いたところに「月形温泉ホテル」があり、今日はここに投宿することにした。4800円とまずまずだが、部屋は広く修学旅行感があってよかった。天然温泉はさすがに時間外だったが、簡単な風呂に案内されて一息つけた。

明日は当然新十津川に行くが、せっかくなら北海道医療大学石狩月形の間の5駅にも訪問しておきたい。真ん中の三駅(本中小屋、中小屋、月ヶ岡)は今日中に行けたので、あとは両端の石狩金沢知来乙だ。知来乙へは月形から歩いていき、知来乙から石狩当別行の始発に乗れば石狩金沢にも行けてパーフェクトだ。とりあえず五時起きを目指せばどうにかなる、と考え、寝ることにした。